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(財)博慈会 老人病研究所 客員研究員 栄養情報担当者 (NR:国立健康栄養研究所認定) 元近畿大学豊岡短期大学講師 健康カウンセラー/ 心理カウンセラー
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≪日本健康アカデミー・勉強会予定表≫ 5月27日、ラトゥール新宿(東京) 5月31日、ラトゥール新宿(東京) 6月24日、ラトゥール新宿(東京) 7月2日、泉が丘ビッグアイ(大阪) 7月3日、ピュアリティまきび(岡山) 7月3日、ステーションホテル小倉(北九州) 7月4日、コンパルホール(大分) 7月9日、ホテルトヨタキャッスル(豊田) 7月10日、割烹「芳川」(清水) 7月10日、あざれあ(静岡) 7月16日、産経学園銀座校(東京) 7月22日、ラトゥール新宿(東京) 7月24日、ホテルメトロポリタン(東京) 8月26日、ラトゥール新宿(東京) <Break Time:三河八橋の春> 唐衣きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ 300年前の巨大地震:元禄大地震 元禄16年(1703年)11月23日深夜、野島崎の南海上を震源とする推定マグニチュード8.2の大地震が起こります。震源に近い場所では、震度5〜7と推定。この地震により、福島から紀伊半島にわたる広い範囲で津波が発生し、高さは4〜8メートルに達しました。房総だけでも4000〜5000人以上の死者を出しています。 被害は九十九里沿岸に多く、2000人を超える溺死者が出ました。この時期はイワシの豊漁期のため、多くの漁業関係者が海岸近くに納屋集落を作っていたこと。また津波が一宮川等の河川を遡り、かなり内陸にまで押し寄せたことが被害を広げました。安房国長挟郡横渚(よこすか)村の集落・前原(鴨川市)では、600余軒の家屋が全て流失し、1300人を超える死者を出しました。なお津波による犠牲者の供養碑が、各地に建てられています。 糸日谷家の墓がある大網白里町北今泉・等覚寺にも供養塔があります。この津波塚は、寺の境内ではなく寺から離れた海側、諏訪神社の向かいの付属墓地の一角にあり、糸日谷家の墓のすぐ近くです。63名が埋葬されたこの塚は、正徳5年(1715年)、北今泉村の人々により建てられた13回忌の供養塔で、碑文には「妙法海辺流水精霊奉唱題目壱千部 願主、北今泉村 正徳5年11月23日」とあります。 この地震で、房総半島南端の大きいところでは地面が5メートルも隆起し、島だった野島は陸続きとなり、以後、野島崎と呼ばれるようになりました。 なお元禄大地震以外にも、房総近海を震源とする大地震は、慶長9年(1604年)、延宝5年(1677年)、安政2年(1855年)に発生しています。 (あとがき) 糸日谷家の先祖が津波の被害にあったかどうかは、話として伝わっていません。しかし、尊い命の連鎖によって自分がこの世に生まれ、生きているということを大切にしたいと思います。また亡くなられた人々の犠牲の元に「今の幸せがある」ということを、心に留めながら生きて生きたいと思います。 最後に2011年3月11日に発生した東日本大震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。 糸日谷家:ふるさと昔話 ある日のこと。九十九里海岸に四天王像が漂着しているのを漁師が見つけました。漁師がそれを手に取ろうとすると、「緑海村の松ヶ谷にお釈迦さんがいるから、そこに行きたい」と四天王像が言いました。そこで漁師たちは、その願いを叶えてやろうと四天王像を皆で担いで歩き出しました。 ところで、四天王像が漂着場所。それは、現在の大網白里町「四天木(してぎ)」です。昔、"四天寄"と表記したのは、この故事に由来しています。 松ヶ谷までは、およそ距離にして4里。さすがの漁師たちも途中で疲れ果て、担いでいた肩を右から左(あるいは左から右)へ入れ替えました。"肩を換えた"ので、その場所を「片貝(かたかい)」といいます。 再び進みましたが、松ヶ谷まではまだまだです。どの辺まで来たか、四天王像に尋ねてみると、返ってきた答えは「まだ先だ」。そこでこの地域を「作田(さくだ)」と呼ぶようになりました。 道を進んでは、一休みの繰り返し。これ以上進むべきか、それとも引き返すべきか、四天王像を戻すか戻すまいか思案した場所が「本須賀(もとすか)」です。 結局、道を進むことになりました。しかし、漁師たちは体力を使い果たし、息も絶え絶え、命からがらの状態でした。そこでこの場所を"命"転じて「井ノ内(いのうち)」と呼ぶようになりました。 そうこうしているうちに、日もとっぷりと暮れてきました。「明日には釈迦堂に着けるだろうから、今日はここで一泊宿を取ろう」と、漁師たちは言いました。その場所が「宿(しゅく)」という所です。 翌日、やっとのことで松ヶ谷にある釈迦堂にたどり着きました……とさ。 さて、その話を後日運慶が耳にしました。 「あの四天王像は、毘首羯磨(ビシュカツマ)にあやかりたいと思って彫ったもの。それが毘首羯磨御作の釈迦如来像の元に奉られるとは、実に仏縁の有り難きことだ」と語った……とか。 このお話は、江戸時代に両国の廻向院で行なわれた出開帳の資料に残されているそうです(参考:勝覚寺四天王像由来より)。 (あとがき) 勝覚寺は、山武市成東にあるお寺です。私の曽祖父は在村地主でしたが、宮大工としての仕事もしていました。成東のとある寺に曽祖父が彫ったという木彫りの仏像があると聞いています。今度、詳しく調べてみたいと思います。 大網白里町のミニ歴史 糸日谷という名字は、九十九里浜の白里海岸地域(大網白里町)に多く存在します。「九十九里」の地名の由来には諸説ありますが、定かなことは分かっておりません。一説には、源頼朝がこの地を訪れた際、六丁(658メートル)を一里として蓮沼村より矢を立てたところ、九十九の矢が立ったことに由来すると伝えられています。 大網白里町は、江戸時代には徳川家の直轄地である天領と旗本知行地とが混在し、代官所なども置かれていました。主な産業は農業と漁業で、特に地引網で捕れるイワシは干鰯や〆粕などに加工され、江戸と浦賀の干鰯問屋を経由して全国各地に運ばれました。佐藤信季(佐藤信淵の父)は、その著『漁村維持法』の中で「諸国の漁業のうち、九十九里の地曳をしのぐものはない……太東岬より犬吠岬まで魚家四万余戸、網主三百余家におよぶ」と述べています。なお息子の信淵は、寛政4年から7年間、上総山辺郡大豆谷村(今の東金市)に住んでいたことがあります。 イワシ漁などの収入で経済的に豊かだったせいか、名主や網元クラスの中には、文化人として活躍する者や文化人のパトロンとなり、地元住民の教育に貢献する者も出ました。特に山崎闇斎派の儒学者・稲葉黙斎を保護したのが、清名幸谷村(今の大網白里町)の鵜沢由斎と名主・大原清助です。黙斎は館林藩主である松平武雅から士官を請われたほどの学者でしたが、士官の道を断り、晩年の18年間を地元の農民たちの教育に捧げました。葬儀に当たっては、館林藩、新発田藩から多額の香典が寄せられましたが、生涯独身であった黙斎には後継ぎがなく、香典代は水田などの購入費に充てられたそうです。 なお隣町である山辺郡小関村(今の九十九里町)の出身者には、日本地図を作った伊能忠敬がおります。