ITOHIYA
メインメニュー

糸日谷ホームページ

ホームページトップ

ごあいさつ

なぜ"健康"が大切か

主な事業内容

健康情報コーナー

【健康歳時記】

【精神栄養学】

【天然にがり】

【キチン・キトサン】

【ミミズ】

【グルコサミン】

【昔話と健康】

安らぎのビタミン

心のビタミン

体のビタミン

命のビタミン

糸日谷秀幸
アサヒ・コム ニュース
お天気ガイド


日本健康アカデミー、糸日谷秀幸塾>命のビタミン
           ーー自殺や殺人が無くなる日を願って書き続けていますーー


価値があるから生きるのではなく、生き抜くことに価値がある。
勝つことばかりが人生じゃない。 たとえ敗れても、起き上がるところに人生の意味がある。
人生は、どれだけ長く生きたかが問題ではなく、どれだけ心を込めて生きたかが重要である。


【目次】
◆硫黄島からの手紙
◆絶対的幸福論
◆自殺を防ぐ食事
◆墨田産院事件
◆鉄砲伝来悲話
◆民衆とともに戦った人たち
◆教育の原点となった学校を作った人
◆親の反対で結ばれなかった恋
夫の帰りを待っていた妻の話
◆千と千尋の神隠し
◆「赤い靴」秘話
◆仏教の教え
◆一杯のかけそば
◆一炊の夢
◆名作「夏の花」
◆三徳の教え
◆生きるヒント 
◆細野正文の選択
◆元禄大地震
◆Alone Again(Naturally)
◆不思議体験シリーズ








◆児童虐待

◆ダークホースの思い出
◆人生生涯小僧のこころ
◆悲しい出来事
◆関が原に散った友情
◆逆境をどう生きるか
◆無欲に生きた托鉢の僧
◆心に染みる万葉の歌の数々
◆心理カウンセリングについて
◆コルベ神父の奇跡
◆映画『おくりびと』
◆みんな違ってみんないい
◆天国からの手紙
◆一隅を照らす
◆親の言葉
◆三村次郎左衛門の選択
◆プラス思考の勧め
◆いじめの問題
◆運がいいのか悪いのか 
◆天を恨まず、運命に耐え……
◆ビートたけし"夢"について語る


◆  硫黄島からの手紙

 「覆水盆に返らず」という諺があるように、歴史を元に戻すことは出来ません。しかし、それでも太平世戦争は避けることが出来たのではないか、広島・長崎の原爆投下は防げたのではないか、そういう思いは私を含めて多くの方が持っていると思います。例えば、2006年に公開された「硫黄島からの手紙」に登場する栗林中将が大本営に提出した上申書(内容は『出来る限り米軍を硫黄島で食い止めるので、早くアメリカとの終戦交渉を始めてほしい』)が採用されていたならば、広島・長崎における原爆投下は防げたのではないか。それにもかかわらず原爆投下は「しょうがない」と発言した防衛大臣がいたことが残念でたまりません。

 栗林中将といえば、駐在時代のアメリカや硫黄島から、愛情あふれる家族への手紙を送り続けたエピソードが知られています。アメリカからは、第一子の長男が幼かったため、47通にも及ぶ絵手紙を送っています。また硫黄島から家族に宛てた手紙も41通にのぼり、中でも「たこちゃん」で始まる当時10歳の次女に送った手紙には、子煩悩な父親の姿がうかがえます。対米開戦に批判的だったためか、主戦派に嫌われ、生還の見込みのない硫黄島の司令官を命じられたとも言われています。

 彼は、着任早々、島民を本土に強制疎開させ、空爆や艦砲射撃に耐えうる大規模な地下陣地を建設。昭和20年2月19日、米軍海兵隊が硫黄島に上陸したとき、地下の洞窟にこもった2万1千名の守備隊は、米軍上陸部隊6万人、支援部隊22万人と互角に奮戦し、5日で陥落するだろうという米軍の予想に反し、36日間、米軍を食い止めました。当時、米軍最高責任者は、原爆投下の3ヶ月前には「日本にウラン型とプルトニウム型の2発を投下し、効果をテストする」ことを決めていました。それ以前に終戦決定がなされなかったことが遺憾でなりません。

 栗林中将は、決別の電報で辞世の句を大本営に送っています。「国のため重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」。しかし、この句は発表の際、大本営によって「散るぞ口惜し」に改ざんされたことが後に分かりました。平成6年のこと。硫黄島を訪れた今上天皇は、「精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」の歌を詠まれたそうです。

 

 


◆  児童虐待

 児童虐待防止法の施行から6年が経ったにもかかわらず、未だ子供たちへの悲惨な虐待が止まりません。昨年度、全国の児童相談所が対応した児童虐待は約3万4千件。今年上半期に虐待で死亡した子どもはすでに28人。なんと一週間に1人の割合で命を落としている数字です。

 親以外に頼るもののない幼子の命が、その親によって奪われるという悲惨なニュースに暗たんたる気持ちになります。昔、アメリカの心理学者H.F.Harlowが、サルを使って「surrogate mather実験」を行ったのは有名ですが、Harlowの結論は「母性は本能ではなく、学習されたものである」という結論でした。つまり、人類に生まれつきの"母性本能"というものは存在せず、母性は学習によって獲得した結果である。幼少期に親から十分な愛情を受けることで、母性というものを学習する。しかし、十分な愛情を受けられなかった子供は、親になったときにわが子を愛することが出来ない。悲しいことですが、それが「surrogate mather実験」の結論だったのです。
 人は神の子であるといいながら、戦争をしわが子を虐待し殺人事件を起こす。他の動物には、ありえない行動である。人間の存在とは、いったい何なのか。尊厳というものは、本当にあるのか。実に悲しい時代になってしまいました。
(虐待死の悲しい実態)
 大学の法医学教室や監察医機関が2000〜06年に手掛けた17歳以下の解剖例で、虐待による死亡またはその疑いの強い死亡が計387人に上ることが、日本法医学会の調べで分かりました。うち113人は、繰り返しの暴行や育児放棄(ネグレクト)による死亡で、約8割は0歳児を中心とする3歳以下。
 調査は2007〜08年、解剖を担当する全国の84大学・機関を対象に実施。55大学・機関から回答。その結果、繰り返しの暴行やネグレクトによる死亡113人、殺害された嬰児54人、無理心中による死亡73人、以上を除く殺人による死亡86人、その他の事例による死亡61人……でした。繰り返しの暴行やネグレクトによる死亡では、加害者のうち実母が32人と37%を占め、次いで実父17人、継父か内縁の父16人、祖母2人、おば2人……など。暴行した実母32人の動機は、愛情の欠如11件、子供の反抗的態度4件、家庭不和3件、子供の泣き声3件……など。
 調査結果をまとめた東北大大学院・舟山真人教授は、「法医学者は傷の形状や程度などから、虐待の有無が分かることもある。大勢の命を救うために、法医学者が生存段階から子供の傷の鑑定に積極的に関与する必要がある」と指摘。また同学会は、「社会との関わりが薄い3歳児以下の子どもを、社会がどう見守るかが課題だ」と語っています。
 本来、わが子を守ってあげられるのは親だけなのに……何とも……悲しい時代になりました(絶句)。
                                          
 上野正彦著『監察医の涙』(ポプラ社)より
 いかなる虐待を受けても、子にとって頼れるのは親しかいない。どれほど痛かったか、辛かったか。耐えるしかないそのような子を見ると、涙をぬぐわずにはいられない。
 もう子どもの検死はしたくない。深々と黙とうする以外になすすべのない自分を情けなく思うのである。

 

 



  虐待に関していえば、危険信号をキャッチしながら防げなかったケースが多いことです。秋田県の4歳男児殺害事件では、母親による虐待を児童相談所が2年前から察知しておりました。福島県で両親が男児を衰弱死させた事件や京都府の男児餓死事件でも児童相談所が虐待を事前に認識していた。児童相談所も警察も、子どもの命を守る「最後の砦」なのです。虐待は大人になったときに"心理的トラウマ"に陥るため、子供の命に危険が及びそうな場合だけ出動するのではなく、虐待そのものが犯罪であるという認識を持って欲しいと思います。                                                                                                                 
 少子化、核家族化の進展で、わが子が生まれるまで、赤ちゃんの世話をしたことがないという男女が増えている。「母性」や「父性」をはぐくむ環境も失われつつある。親であることと親になることは違う。こんな時代だからこそ、育児を始める前に、赤ちゃんのぬくもりを実感し、命の尊さを学ぶことが重要だ。そして「命の大切さの教育」は、すでに小学生から始めなくてはいけない。そうすれば、将来、いじめや殺人事件を起こす若者が減っていくことにつながる。学校教育においては、性教育の前に「命の教育」が必要だ。
 「いま、会いにゆきます」の
主人公・澪は、自分の人生が後8年の寿命であることを知りながら、まだ見ぬ我が子のために巧との結婚を選んだ。たとえ前途多難でも「結婚とは、これから産まれてくる我が子に出会うための営み」であることも忘れてはならない。

 



 鳥取県米子市・湊山公園にあるニホンザル飼育施設「猿が島」で、11歳の雌猿ラッキーが、育児放棄に遭った子ザルを同時期に生まれた自分の子どもと一緒に育てていることが話題を呼んでいます。
施設は、2009年7月上旬にベビーラッシュを迎え、5匹が誕生。うち1匹が母親に捨てられたが、ラッキーがすぐに抱き上げて我が子同様に世話を開始。子ザル2匹が双子のように抱かれ、じゃれ合う姿が人気を集めているそうです。

 

 

 

 


◆  絶対的幸福論

 1998年以来、年間自殺者が3万人を越えています。先日も自殺志願の25歳の女性が、東京・池袋駅前にあるパルコビルの屋上から飛び降り、下を歩いていた38歳の男性と接触した大事故がありました。自分のみではなく、他人を巻き沿いにすることは許されません。ある雑誌に「人を殺してなぜ悪いのか」という若者の問いかけに多くの大人が答えられない、といった記事がありましたが、他人の幸せや人生そのものを奪う権利など初めからありませんので、その質問自体ナンセンスな気がしてなりません。拉致問題にしても同じです。11月15日は、横田めぐみさんが13歳で拉致されてから今年で30年目を迎えます。何人も「他人の幸せや人生そのものを奪う権利」など初めからありません。本当に法律というものが「てんびん棒」のように公平で平等であるならば、すべての刑法の出発点は、ハムラビ法典の精神へ戻るべきでしょう。
 私は、若い頃に数多くの哲学書や宗教本を読み漁りましたが、最近、人を幸福に導く教えはこれしかない、と思うようになりました。しかし、時期尚早なので、それが何かはまだ秘密にしてありますが、長い人生経験の中からその答えを導くことが人生の目的の一つなのかもしれません。そのことにもっと早く気づいていれば、また違った人生を歩んでいたに違いありません。
 さて話は変わりますが、若い頃に愛読した本にラッセルの『幸福論』がありますのでご紹介します。
 もしもあなたが栄光を望むなら、あなたはナポレオンを羨むかもしれない。しかし、ナポレオンはカエサルを嫉み、アレクサンダーはヘラクレスを嫉んだことだろう。従って、あなたは成功によるだけで嫉みから逃れることは出来ない。なぜなら、いつもあなたよりももっと成功した人がいるからである。手に入る楽しみをエンジョイし、しなければならない仕事をし、自分よりも幸運だと思っている人たちとの比較を止めるならば、あなたは嫉みから逃れることが出来る。

 この文章を読んだとき、私はサン・テグジュベリの『星の王子さま』の一節を思い出していました。
 星の王子様は、地球にやってきて何千ものバラが咲いているのを見てショックを受けます。なぜなら、美しい花は自分の生まれ故郷に咲いていた1本のバラだけかと思っていたからです。そこに賢いキツネが現れてこう言います。「大事なことは、他のものと比べることではなく、たった一つのものを愛し大切にすることなんだ」。相対的幸福感ではなく、絶対的幸福感の大切さ。子供の頃は、なぜ毎日が楽しかったんだろう。それは、かけがえのない一つのもの、ぬいぐるみ、おもちゃ、ペット……を愛せたから。失われた子供時代の感性を大人になると忘れてしまう。恋愛時代にもう一度「一つのものを愛する大切さ」に気づくが、それも月日と共に忘れてしまう……。もう一度初心に帰れば、本当の幸せが見えてくる。

詩 「ぼくは幸せ」

お家にいられれば幸せ
ごはんが食べられれば幸せ
空がきれいだと幸せ

みんなが幸せと思わないことも
幸せに思えるから

ぼくのまわりには
幸せがいっぱいあるんだよ

院内学級……それは、病気で学校に通えない子供たちのために作られた、病院内にある学校。
東京都品川区立清水台小学校「さいかち学級」は、昭和大学病院内にある院内学級。
名前の由来は、その昔、小学校前の中原街道にはさいかちの木が植えられ、「さいかち坂」と呼ばれていました。さいかちの木は、すくすくと元気に育ち、果実は漢方薬、果実のさやは石鹸として使われたこともあります。学級名は、この木の健やかさと坂の名前に因んで付けられました。
以前、このさいかち学級に宮崎涼君(12歳)という少年が、在籍していました。この詩は、退院が決まり、家に帰ることが出来るようになった時に彼が作ったものです。
「しあわせ」って……本当は、身近なところにいっぱいあるのですね。ただ、そのことに気付かないだけ……。
涼君は、久しぶりに家に帰れることが、よほど嬉しかったのでしょうね。でも……この詩を作った1ヵ月後に亡くなってしまいました。

涼君のご冥福をお祈り申し上げるとともに、院内学級の子供たちが元気な姿で自宅に戻れる日を願って止みません。

◆  ダークホースの思い出

 都内に向かう電車の中。今日は「京浜東北線で人身事故があったので、電車が遅れている」とのアナウンスが流れた。これまで自分の乗っている電車に飛込みがあったケースは7回。そのうち、「いのちの電話相談員をしていた2年間」で5回遭遇したことを思い出した。
 車内で「なぜ自殺しちゃうんだろうね」という女性の会話を耳にした。その理由はね、知ってるよ。結論を急ぎ過ぎちゃうからなんだよ。
 「コレだけ頑張ったんだから、希望校に合格して当たり前。ダメだったら、お先真っ暗」「一流大学を出たからには、一流企業に入るのが当たり前。もし不合格なら、絶望だ」「同僚がみんな出世していくのに、自分一人が取り残される。生きていても意味がない」
 誰にでも辛い人生はある。そんな時、私は中学時代の恩師の言葉を思い出す。「君はダークホースなんだよ。最後まで走り続けることが大切なんだよ」
 最初はビリでもいい。人生は、走り続けることが大切だ。人生80年。折り返し地点の40歳はとっくり過ぎているのに、目標の半分にすら到達しない。でもいい。同僚が60歳で定年を迎えても、自分は72歳まで頑張れば追いつけるだろう。それでもダメなら、84歳まで頑張ろう。ダークホースなんだから、最後まで諦めてはいけない。
 オグリキャップがそうだった。地方競馬でも最初は目立たなかった。しかし、次第に頭角を現し、最後の引退試合は中山競馬場で素晴らしい走りを見せてくれた。あの姿は、まるで自分のことのように感動し涙した。
 急ぐことは無い。人生は、マラソンだ。花札では「雨の20」が好き。柳の葉に飛び乗ろうと一生懸命カエルがジャンプする。何度も何度もチャレンジして、ついに葉に飛び乗ったカエル。それを見ていた小野道風は、努力することの大切さを知り、後に三蹟と呼ばれる書道の大家になった。ウマだってカエルだって、頑張っているではないか。人生は、長いマラソンだ。ダークホースを信じて生きてみよう。



 

◆  自殺を防ぐ食事

  内閣府が発表した「自殺対策に関する意識調査」において、成人男女の19.1%が「本気で自殺を考えた経験がある」ことが明らかになりました。さらにそのうち20.8%の人が「最近1年以内に自殺したいと思った」と回答。また自殺を考えた時に「身近な人に相談したことはない」人が60.4%に上り、一人で思い悩むケースが多い実態も浮かび上がりました。
 この調査は、2008年2〜3月、全国20歳以上の男女3000人を対象に実施し、1808人から回答を得たもので、自殺に関する政府の全国一斉調査としては初めてのものです。
 厚生労働省が2006年にまとめた別の報告書では、「自殺を考えたことがある人」は1割弱でした。しかし、今回の調査結果はこれを上回り、20代(24.6%)と30代(27.8%)で比率が高いことも分かりました。また職業別では「パート・アルバイト」が25.8%で最多。
 自殺を考えたことがある人の11%は「悩みやつらい気持ちを受け止めてくれる人がいない」と回答。周囲の支えが大切なことがわかりました。またインターネット上の自殺サイトについて「規制すべきだ」との回答は76.1%に達しましたが、同サイトを「見たことがある」人はわずか1.9%でした。
 また仕事を持っている人を対象に「うつ病になった場合に休職するか」について聞いたところ、「上司や同僚に迷惑をかける」が51.7%で最も多く、「職場復帰ができなくなる」26.6%、「昇進や昇給に影響する」18.3%……の順。休職に関しては「特に支障はない」との答えは1割未満でした。

 中国・大連医科大学の研究では、自殺未遂で大連の病院へ運び込まれた100名の患者と、故意ではない事故で怪我をした患者100名を混合し、血液中のEPA濃度が高い順に50名ずつに区切って4つのグループに分けました。その結果、自殺未遂者の占める割合は、EPA濃度が最も低いグループでは74%に達していたのに対して、EPA濃度が最も高いグループでは26%しかいなかったと発表。このことから、魚(EPAを含む)の摂取量が少ないと自殺未遂を起こしやすくなることが推測されました。その理由として、EPAの血中濃度が低いとセロトニン作動性ニューロンを活性化できなくなり、衝動性の亢進やうつ病が起こりやすくなると推測されます。
 このように、魚の摂取は血液中のEPA濃度を高め、うつ病や自殺未遂を防ぐ効果があると言われています。しかし「魚の摂取が昔から多い日本人は、なぜ自殺者が多いのか」という問題です。これは、専門家の間では”ジャパニーズパラドックス”とも言われています。
 その理由としてまず考えられるのは、脳内ホルモンであるセロトニンの分泌量には遺伝的な要因もあり、日本人は「セロトニンの分泌量が少ない民族」であるからだろう、という推論です。では日本人のうち、どのくらいの人がセロトニン分泌量が少ない遺伝子を持っているかというと約65%、つまり3人に2人はうつ病になりやすく、自殺しやすい傾向にあります。一方、アメリカ人の場合は18%とわずか5人に1人です。アメリカ人が日本人に比べ、どちらかというと楽観主義的なのは、脳内セロトニン分泌量が豊富だからかもしれません。しかし、物は考えよう。アメリカ人の楽観主義がサブプライムローン問題を引き起こしたわけでして、何事も過ぎたるは及ばざるが如し……です。

ある女性が、看護師を志したきっかけとは(「女性セブン」2014年5月8・15日号より)

 17才の時、両親が離婚。DVの父との暮らしが始まり、毎日暴力をふるわれました。家にいるのが嫌で、いつも近所の川を橋の上から眺めていました。
 その日も、橋にいると、20代くらいの青年が「死にたいの?」と声をかけてきたのです。気づくと、私は橋から身を乗り出していました。無意識でした。青年の言葉にわれに返ったものの、父の暴力が続くなら、このまま死んでもいいと思いました。それで、「死にたいか、生きたいか、わからない」と言うと、彼が笑いだし、「うらやましい」なんて言うのです。振り返ってよく見ると、彼は車いすでした。
 「君は、生きることも死ぬことも選べるんだね。ぼくは死ぬしかないのに」とニッコリ。彼は続けて「もし死んだらここにきて、ぼくに魂をちょうだい。ぼくは生きて、やりたいことが沢山あるんだ」と、住所を書いたメモを置いていきました。
 彼の家は、その川の近くでした。いつも座っている橋のベンチから、彼の家が見えました。訪ねようか迷ったまま数週間が過ぎたある日、その家で、葬式が行われているのが見えました。まさかと思い訪ねると、例の青年の葬式でした。
 その時、家から出てきた女性が私を見ると、アッと言う顔をし、「あなた、いつもあの橋のベンチに座っている子でしょ。息子は部屋からいつもあなたを見ていたのよ。この前なんて、突然、外に出ると言うから驚いて……。帰ってきたら“ぼくは自分の命は救えないけど、別の命を救えたかも”なんて、うれしそうに言うものだから……」と、教えてくれたのです。
私は初めて、自分に生きてほしいと言ってくれる人がいたことを知りました。
 あれから私は、医療の道へ進もうという目標が出来ました。目標があるので、死ぬわけにはいきません。



◆  塩沼亮潤著『人生生涯 小僧のこころ』(到知出版社)


 ――私たちの人生はすべて修行である――

 この本は、奈良県吉野山の金峯山寺蔵王堂から大峯山までの片道24キロ、高低差1300メートル以上の山道を16時間かけて1日で往復し、9年の歳月をかけて4万8千キロを歩くという大峯千日回峰行(おおみねせんにちかいほうぎょう)を成し遂げた行者が、修行の末につかんだ世界について書かれたものです。

「人は、人生の中のあらゆる問いに対して、『なぜ?』とすぐに答えを求めたがりますが、神仏はなかなかすぐには答えを教えてはくれません。前を向いて笑って感謝して、明るく元気に頑張って生きていれば、人生良いことも悪いことも半分半分です」
「私が今、心の中で最も大事にしていることは、行とは行じるものではなく「行じさせていただくもの」、そして人生とは生きるものではなく「生かされているもの」だという感謝の気持ちでございます」
「人生とは一体何なのか。こうしたことは、普段すべてが整った幸せすぎる生活の中ではなかなか見えてこないものです。それを知るために自分自身を奮い立たせ、厳しい行に挑むのではなかろうかと思います」
「行というものは一切のご利益的な考えがあってはならないのです。……心の中にまるで幼子がいるかのごとく心を無にして、目に見えぬ功徳というものを一日一日ひとつひとつ積み重ねていくものだと思います」
「苦しんで苦しんで花を咲かせたとき、今までの苦労が光ってくる。苦しんで花を咲かせる者、苦しんで怨みを残す者、苦しみ方次第、心次第」
「人生において何ひとつ無駄なことはないと思います。自分が生かされているうちは、必ずチャンスがあります。そのひとつのチャンスをものにするためには、次の波が来るタイミングをじっと見計らうことです」
「雨の日には『雨さん、ありがとう』。生かされているという当たり前のことが、心からありがたいという心になったとき、本当の幸せを得ます。地位が、権力が、お金が、あの世ではなんぼのものか」
「あえて苦しみの中に身を投じてみるということは、言い換えますと環境をそのまま受け入れるということです。現実は自分の一存で変えることはできませんが、現実を受け入れ愚痴らず精いっぱい生きると、そこに道が開けてくるものだと思います」
「生まれてから死ぬまでの間に私たちは何をすべきなのでしょうか。そう審判に尋ねると、こんな返事をするのではないでしょうか。『人生というのは、あなたの思いどおりにならないようにセッティングされています。それをどう克服するか、そこからどう感謝の気持ちを導いてくるか、これが試合の内容です』。試合の相手は誰ですかと問えば、『それは自分自身です』。そんな答えが聞こえてきたような気がいたします」
「心を込めて生きるから心が変わり、心を込めて語るから相手の心に伝わり、心を込めて行うからみんなが感動してくださる」
「さまざまな行の中で私が感じた「人間が生きていく上で一番大切なもの」とは、「足ることを知ること」と「人を思いやること」の二つです」
「行を終えた今現在も、『今日よりは明日、明日より明後日』と、いつもいつも過去最高の自分になれるように神仏に手を合わせ、祈っています」
「九十九パーセント駄目だといわれても、一パーセントでも可能性があれば挑戦し続けるべきです。一パーセントとは生きているという可能性です」
「人生とは常に挫折と挑戦の繰り返しです。上手でも下手でも心を込めて実践することに人生の意義があるように思います」
 


◆   墨田産院事件


 昭和33年、あってはならない事件が東京都立墨田産院で起きました。この年の4月10日に出産した男児が、おそらく産婆が行った入浴の際に別の男児と取り違えられ、血のつながりのない親に引き取られて育つことに。両親と血液型が合わず、身長や顔立ちも異なることに疑問を持った男性はDNA鑑定を受診。その結果、2004年5月、「親子ではない」と判明したのです。
 現在、男性は福岡市内に住み、実の親が名乗り出てくれることを待ち望んでいます。「どこかで元気でいてほしいと思っているし、もし亡くなっているのなら、せめて兄弟に会って、どんな人だったのかを聞いてみたい」。男性の思いは、もし自分がその立場にあれば、誰もが同じことでしょう。

 現在、自分が存在するのは父親と母親が存在し、そして出会い、結婚したお蔭です。また父親と母親が存在したのは、そのまた父親と母親が存在し、そして出会い、結婚したお蔭。そう考えると途方もない命の連鎖によって「現在の自分があること」を思い知らされます。時には、佐倉惣五郎のような偉人の話を聞き、数多い自分の先祖の中に「ひょっとしたら佐倉惣五郎によって、命を助けられた人がいたかもしれない」。そう思うと「そのような偉人たちの生き方を今の子供たちに伝えながら、命の大切さについて語り継いでいくようなボランティア活動をしてみたい」。そんな思いに強く駆られています。
 奇しくも昨年は、家族の大切さを伝えるような本がベストセラーとなりました。一つ目は、島田洋七著『がばいばあちゃん』。まだ母親が恋しい小学2年生から中学卒業まで、佐賀の祖母のもとで育てられ、祖母から「貧しくともたくましく生きること」を教えられた実話。ユーモアを交えたエピソードの中に島田洋七さんの母親への熱い思いが、ところどころに散りばめられています。


 そしてもう一つは田村裕著『ホームレス中学生』。小学5年生の時に母親が直腸がんで死亡。その後、中学2年の夏休み直前、実家が差し押さえとなり、約1ヶ月間、近くの公園で寝泊りをしたエピソードから始まるストーリー。母親ががんで入院中、「けんちゃん…さっちゃん…ひろ君…ごめんなぁ…ごめんなぁ」と、子供の名前を何度も呼んでは毎晩うなされる声に、周りの患者から「うるさい」と苦情を言われ、6人部屋の病室から1人部屋に移ったエピソード……など、涙無しには読めない本です。
 以前、テレビの中で田村さんは、野口英世の伝記の中に「英世の母親の話が登場すること」を知り、「自分もいつか有名になれば、自分の母親も有名になってくれるだろう」。そんな思いでコメディアンを目指したとも語っていましたが、そんな思いを感じさせるあとがきを本に記しています。
母に今伝えたいこと
 お母さん、お元気でしょうか。お母さんはきっと、今もどこかで僕のことを見てくれていると思います。僕はお母さんの望むような孝行息子に近付けているでしょうか。お母さんが生きていたら、人に自慢できるような息子になれているでしょうか。自分では何もできなかった僕が、何でもお母さんに甘えて、何でもしてもらっていた僕が、少しは大人になれたでしょうか。僕はやっぱり誰よりもお母さんが好きでした。
 ……情けないことに、今でも僕はお母さんに会いたくて仕方ありません。死にたいということではないけれど、お母さんに直接会っていっぱい喋りたいです。……きっとそれが最後のワガママです。そしてそのときまでは今まで同様、僕を見守っていてください。選択を間違えてしまうことはあるかもしれないけれど、僕なりにいつまでもまっすぐ、お母さんのように生きていきたいと思います。いつか僕を見て周りの人が、僕ではなく、お母さんのことを褒めてくれるような立派な人間を目指して。(完)
 
 「血は水よりも濃し」という諺がありますが、親子の絆はどんな困難にも打ち勝つくらい強いものだと思います。前述の男性の話に戻れば、生きていればこそ、また巡り合うこともあります。横田めぐみさんのご両親に対する気持ちも同じですが、今の時代に『安寿と厨子王』のような"悲しい親子の別れ"が決してあってはならないと思います。


 


◆  悲しい出来事

 年間の自殺者が10年連続3万人を超えた、とのニュースが流れました。未遂者を含めると推定30万人以上の方が、自殺または自殺未遂をしているといった悲しい時代となりました。
 それは、今から17年前のことです。青函トンネル内で、若い女性の轢死体が発見されました。死体発見現場まで、トンネルの入口からは16キロもあり、どのように現場に辿り着いたのかが疑問でしたが、その後の調べで次のようなことがわかりました。26歳のその女性は、失恋を苦に自殺しようと北海道まで着ましたが、死にきれずにその夜、「明日帰るから」と自宅に電話をしていたそうです。翌日の朝、札幌発東京行きの特急北斗に乗車しましたが、北斗が青函トンネルに入った時、車掌室の窓を開けて飛び降りたようです。そして、歩いて反対側のレールに横たわり、その後やってきた急行はまなすに轢かれた……。暗いトンネルの中でひとりぼっち、レールに横たわり次に来る列車を待っている…、どんなに寂しかったことか…、なぜ自宅に帰らなかったのか…、ご本人はもとより残されたご両親にとっても大変辛かった事件だろうと思います。
 長い人生、辛いこと苦しいことは多々あります。失恋に関して言えば、時が過ぎてしまえば「懐かしい思い出」になってしまうものです。たとえ振られたとしても「今に見ていろ、立派な男(女)になって結婚しなかったことを後悔させてやるぞ」「自分を愛してくれたあの人は、こんなに立派な人だったのか…相手がそう思ってくれる日がいつかやってくるために頑張って自分を磨くぞ」。失恋は、いつだって自分を叱咤激励し、自分に磨きをかけるための最高のイベント。スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんは「人生に無駄はない」という言葉をよく使いますが、無駄があるとすれば「自分の人生に後悔ばかりして、マイナス思考に陥ること」ぐらいでしょうか……。

 本来、子供を守るべき母親がわが子を殺害してしまった。2008年9月に福岡市西区の小戸公園で小1年の富石弘輝君(6)が殺害された事件で、母親の薫容疑者(35)が逮捕されました。
 「息子がいなくなったんです」。薫容疑者は18日午後、弘輝君を最初に発見した男性(62)が公園内のベンチにいる時、涙声で話しかけてきたという。弘輝君が公衆トイレのすき間で発見されたのは、午後4時過ぎ。第一発見者の男性が「おーい」と大声で周囲に知らせると、薫容疑者は「なんですか」とトイレに近寄ってきた。しかし、男性が「ショックを受ける」と思い制止すると、振り切って行こうとしなかったという。20日の告別式では、黒いTシャツ姿でほほえむ弘輝君の遺影を抱えたまま号泣し、知人らに抱えられて崩れるように霊柩車に乗り込んでいったといいます。
 弘輝君が通っていた内浜小では、田崎校長が記者会見し「弘輝君が一番信頼していたのは母親。信じられない。こんな悲しいことはない」と語ったそうです。また15日の「敬老の日」に、弘輝君からお祝いの絵手紙をもらった福岡市西区の男性(72)は「最悪の結末。どんな事情があっても、わが子を手にかけることは許されない。殺す気になれば、どんなことでも出来たはず」と憤ったそうです。
 「病気を抱え、自分の将来を悲観した」と供述しているという薫容疑者。育児に関しては、昔は近所の人たちがよき相談相手となり、お互いに助け合っていた時代もありましたが、最近では相談する相手もなく、悩みを一人抱え込んで育児ノイローゼになる母親も多いと聞く。詐害現場にお菓子を供えた近所の主婦(63)は「地域の人に相談すれば助けられたかもしれないのに……」と声を詰まらせたそうです。

 「自分の生きる道は、これしかない」と思うと人生は辛くなります。入る大学はこれしかない、入社する会社はここしかない、結婚相手はこの人しかいない……。しかし、長い人生振り返ってみると、七転び七起きしながら生きる遠回りの人生だって、すべての道はローマに通ず…ではありませんが、夢さえ失わなければ、夢の入口ぐらいまでは辿り着けるものなのです。しかし、夢をかなえるには2つの条件がいります。1つは「正しい夢を見ること」です。自分だけの幸せではなく、周り人の幸せもかなえてあげるような広い心を持った夢でないと神様は応援してくれません。もう1つは「夢に向かって努力すること」です。果報は、寝て待っていても訪れてくれません。人生、七転び七起きです。ふと振り返ってみた時に自分のこれまでの人生が懐かしく、そしていとおしく見える日を信じて、ゆっくりでもいいから一緒に歩んでみませんか。


◆  鉄砲伝来悲話ーー八板金兵衛の娘・若狭ーー「心に残る人生ドラマ30話」より

 1543年(天文12年)8月25日、種子島{たねがしま}は台風一過の晴天に恵まれていました。この日、種子島の最南端である西村{にしのむら}の小浦{こうら}という場所に一雙{せき}の中国船が漂流しました。旧暦の8月25日というのは、新暦に直せば9月下旬から10月上旬に当たりますので、おそらく台風によって難破{なんぱ}した船だったと思われます。
 この時、すぐさま浜辺へ駆{か}けつけたのは、島の家老格{かろうかく}に当たる西村織部丞{にしむらおりべのじょう}でした。浜辺に着いた織部丞は、漢文の素養がありましたので、さっそく船に乗っていた中国人と砂の上に字を書きながら筆談{ひつだん}を始めました。
 その結果、一緒に船に乗っていた二人の異国人は「西南蛮{にしなんばん}の商人」であることがわかりました。当時、南蛮というのは今の"東南アジア"を指しますので、西南蛮とは、さらに西側、つまり今の"ヨーロッパ辺り"を意味します。乗組員たちは、水と食料を求めており、船を早く修理して出航{しゅっこう}したいと望んでいることも筆談によって明らかとなりました。
 織部丞は、さっそく島の領主である種子島時堯{たねがしまときたか}にこのことを報告しました。

 二日後、ヨーロッパ人(ポルトガル人)と会見した時堯は、彼らが手にしている長い鉄の棒のようなものが気になりました。
 やがて彼らは、鉄の筒の中に黒い粉と鉛の玉を入れると何かを狙{ねら}うように構{かま}えました。この時の様子を、薩摩{さつま}の僧・南浦文之{なんぽぶんし}が書いたとされる『鉄炮記』{てっはうき}には、「まるで稲妻{いなづま}のような光、雷鳴{らいめい}のような爆音がした」と記されています。
 当時、わずか16歳であった時堯は、好奇心旺盛{こうきしんおうせい}だったのか、なんとかそれを手に入れたいと思いました。そして、交渉の末、大金(一説には2000両)をはたいて鉄砲二挺{ちょう}を買い求めたといわれています。
 本来ならば、大金をはたいて購入した物は、家の家宝として仕舞{しま}い込んでしまうのが普通かもしれません。しかし、時堯は違っていました。二挺のうち一挺を城下の鍛冶屋{かじや}に渡し、「分解して同じ物を作れ」と、命じています。
 当時、種子島には30軒以上もの鍛冶屋が住んでおりました。実は、種子島の砂は砂鉄を多く含み、製鉄業が盛{さか}んであったのです。
 鍛冶屋の中でも八板金兵衛{やいたきんべえ}という男が、すぐに銃身{じゅうしん}の筒を完成させました。銃身は刀と同じ鉄板ですから、これを真金{しんがね}に巻きつけて叩いて接合すれば出来上がります。だが、どうしてもわからなかったのが、銃の底を塞{ふさ}ぐネジの作り方でした。
 鉄砲は撃{う}った後、火薬の煤{すす}が銃身に残ります。煤が溜{たま}まると爆発する恐れがあるので、取り除かないといけません。そのために銃底にネジが付いていたのです。当時、日本にはネジそのものが存在しませんでした。ネジには、雄{お}ネジと雌{め}ネジとがありますが、金兵衛には、筒の内側に溝{みぞ}を刻む雌ネジの作り方が謎でした。
「一体、どうすればいいのか?」
 金兵衛は、思い余ってポルトガル人に尋ねました。
「おそらく大金を要求してくるだろう」
 そう思っていました。
 しかし、ポルトガル人が示した交換条件は意外でした。
「金はいらないが、嫁が欲しい」
 その答えに彼は、びっくりしました。そして、困り果てました。
「どうしたら、よいものか……」
 私案のあげく、金兵衛が出した結論はこうでした。
 それは、まだ若干16歳になったばかりの自分の娘・若狭{わかさ}をポルトガル人に差し出すことだったのです。

 涙とともに親子の別れがやってきました。ポルトガル人とともに島を去った若狭は、翌年、東南アジアから一人の鍛冶{かじや}職人を連れて戻ってきました。金兵衛は、その職人からネジの作り方を学び、ようやく鉄砲を完成させたといわれています。
 そして、ポルトガル人は、再び若狭を連れて島を離れました。その後、父と娘は二度と再会することはありませんでした。若狭は異国の地、マラッカに没したとも伝えられています。

月も日も大和{やまと}の方ぞなつかしき
    我{われ}二親のあるを思へば

 これは、八板金兵衛の娘・若狭が異国の地で詠{よ}んだ歌だと言われています。

 その後、鉄砲は織田信長{おだのぶなが}ら戦国武将によって大量生産されました。金兵衛が娘の幸せと交換条件で手に入れた製造法は、やがて紀州根来{きしゅうねごろ}、泉州堺{せんしゅうさかい}、近江国友{おうみくにとも}などへと伝わりました。鉄砲伝来からわずか半世紀で、日本国内には20万挺もの鉄砲が存在したともいわれています。

 鉄砲伝来は、日本に一体何をもたらしたのでしょうか。
 私は、2つの大きな意味があったように思います。
 一つは、鉄砲の威力{いりょく}を正しく評価し、それを積極的に採用した織田信長によって、100年間も続いた戦国時代に終止符{しゅうしふ}を打つきっかけを作ったことです。信長から秀吉{ひでよし}、そして家康{いえやす}によって戦国時代は終わり、天下泰平{てんかたいへい}の世となりました。もし鉄砲というものが存在しなかったならば、さらに戦国時代は続き、日本は荒廃{こうはい}してヨーロッパ諸国の植民地になっていた可能性も否定出来ません。
 実は、1596年(慶長元年)にある事件が起こっています。サン・フェリペ号事件です。
 この年、土佐{とさ}湾沖合でイスパニア(スペイン)船サン・フェリペ号が座礁{ざしょう}しました。豊臣秀吉{とよとみひでよし}の五奉行{ごぶぎょう}の一人・増田長盛{ましたながもり}が現地に赴{おもむ}き事故の調査に当たったのですが、この時、船に乗っていた水先案内人のフランシスコ・デ・サンダから意外な話を聞かされました。
 彼は長盛に世界地図を見せ、イスパニアの領土・植民地の広がりを自慢{じまん}したあげく、
「イスパニアでは、まず日本に宣教師を送りこみ、住民を手なづけてから軍隊を派遣{はけん}して植民地にする計画だ」
という内容のものでした。
 この話が事実だったどうかはわかりませんが、当時スペインやポルトガルでは、世界中に大量の軍隊を派遣{はけん}して植民地にしていった歴史があります。
「もしも日本にまだ鉄砲が伝わっていなかったら……」
「鉄砲を大量生産する技術がまだなかったなら……」
 ひょっとしたら、日本はヨーロッパの庶民地にされていた可能性も否めません。しかし、当時すでに国内には国産の鉄砲が20万挺も存在しました。鉄砲の普及が、日本の庶民地化を阻止{そし}したとはいえないでしょうか。

 鉄砲伝来については、中学・高校の歴史の授業で学びますが、その完成のために犠牲{ぎせい}となった一人の少女の話は登場しません。わずか16歳の少女の犠牲によって、日本の戦国時代は終わりを告げました。そして、ヨーロッパの植民地支配から免{まぬが}れることが出来たのです。その事実を語らずして、鉄砲伝来を語ることは出来ません。この事実は、決して忘れてはいけないものだと私は思います。

 平和というものは、初めから存在するものではない。数多くの人々の犠牲によって獲得{かくとく}するものである。なぜだろう……それは、人間は愚{おろ}かな動物だから。戦争はいけないといいながら、未だに世界中のどこかで行われている。今日の日本の平和も、第二次世界大戦で犠牲となった数多くの人々のお陰であることを知らなくてはいけません。

 


◆  関ヶ原に散った友情ーー大谷吉継と石田三成ーー 「心に残る人生ドラマ30話」より

 1600年(慶長5年)、天下分け目の関ヶ原{せきがはら}の戦いが起こりました。結果は、徳川方の大勝利となり、多くの西軍武将は処刑あるいは改易{かいえき}となりました。
 さてこの戦いの後、石田三成{いしだみつなり}方の西軍に与した数多くの武将の中で、たった一人だけ徳川家康{とくがわいえやす}に「惜{お}しい武将を亡くしたものだ」と言わしめた者がおります。それが大谷吉継{おおたによしつぐ}でした。

 大谷吉継の武士としてのスタートは、16歳の時。初めて石田三成と出会い、二人の友情が深まる中、三成の推挙{すいきょ}によって豊臣秀吉{とよとみひでよし}に仕えることに始まります。
 吉継の幼名は、"紀之介"{きのすけ}といいますが、秀吉から一字もらって"吉継"と名を改め、親友である石田三成の口添えもあってか、150石取りから最終的には越前{えちぜん}の国(今の福井県)敦賀{つるが}5万石の領主にまで出世しています。
 吉継には、持病がありました。30歳を過ぎた頃からハンセン氏病にかかってしまったのです。ハンセン氏病とは、別名"らい病"ともいい、癩菌{らいきん}によって起こる感染病で、当時は不治{ふじ}の病とさえ言われていたものです。関ヶ原の戦いの時には、すでに顔の皮膚{ひふ}も崩{くず}れ、目も見えなくなっていたといいます。
 ある日、豊臣秀吉が主催する茶会に出席した時のことです。吉継は緊張{きんちょう}のあまり、自分のところに回ってきた茶碗{ちゃわん}の中に鼻汁を落としてしまいました。一瞬辺{あた}りに沈黙{ちんもく}が流れました。「鼻汁の入ったお茶を飲んで、自分もハンセン氏病に感染するのではないか」
 事情を知っている武将たちは、戸惑{とまど}いました。吉継もどうしてよいかわからずに困ってしました。すると、三成が横から声をかけました。
「喉{のど}が渇{かわ}いて待ちきれない」
 三成は、そう言って無礼を詫{わ}びると、その茶碗を平然と受け取り全部飲み干してしまったといいます。吉継は、この時の三成の友情を一生涯忘れませんでした。

 「お互いに言いたいことを自由に言い合えるのが、真の友達である」
 そんな言葉があります。
 石田三成と大谷吉継、この二人は「お互い言いたいことを言い合える」仲でした。

三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近{さこん}に佐和山{さわやま}の城

 そんなひやかし歌が、城下で流行ったことがありました。
 島左近{しまさこん}というのは、三成の家来の名前で、佐和山城というのは三成の居城のことです。実は、島左近は元々羽柴秀長{はしばひでなが}の家臣でしたが、秀長没後、三成に1万5千石で召し抱えられた武将でした。当時の三成の禄高{ろくだか}が4万石足らずですから、自分の収入の半分近くをたった一人の家来に与えたわけです。
 この時、吉継は三成にこう忠告したと言います。
 「家臣には、ただ高い禄を与えれば良いというわけではない。主人が真心を示さなければ、心から心服{しんぷく}しないものである。金銭で人を使おうとすれば、人の心は離れるばかりである」

 多くの会社の社長は、高い給料さえ与えていれば社員は黙って働くものだと考えている。しかし、それは間違えである。給料だけ払っても社員を思う愛情が欠けていれば、心から社長に従う者などいないのである。

 1600年(慶長5年)、徳川家康が会津{あいづ}の上杉攻{うえすぎぜ}めの軍を起こすと、吉継も家康に従い敦賀を出発しました。垂井{たるい}の宿{しゅく}までやって来ると、三成の使者が来て、途中佐和山城に寄ってほしい旨{むね}を伝えました。
 そこで佐和山城に行くと、三成から家康討伐{とうばつ}の計画を聞かされたのです。吉継は、その無謀{むぼう}さを思い止まるよう三成に忠告しました。
「世間は貴殿{きでん}に対して横柄{おうへい}なやつだと言っている。それに対して、家康殿は礼があって愛情深く人気が高い。また大事を起こすには知恵と勇気が必要だが、貴殿には知恵はあるが、今一つ勇気に欠けるところがある」
 だが、三成の決意はすでに決まっていました。吉継は、三成がこの戦いに負けることを予知していましたが、これまでの友情に殉{じゅん}じて死を決意したといいます。

 ハンセン氏病が進み、目が見えなくなっていた吉継は、家臣の担{かつ}ぐ駕篭{かご}に乗って関ヶ原に出陣しました。さらに小早川秀秋{こばやかわひであき}が家康に内通していることを察して、松尾{まつお}山に陣取る小早川軍の眼前に布陣{ふじん}を行ないました。
 午前8時、東軍の井伊直政{いいなおまさ}と松平忠吉{まつだいらただよし}の軍が、西軍中央に布陣する宇喜多秀家{うきたひでいえ}軍へ向けて発砲したことから両軍の戦いが始まりました。大谷隊は、藤堂{とうどう}・京極{きょうごく}軍を相手に奮戦{ふんせん}を続け、正午頃までは、東西両軍互角の戦いが続いています。
 形勢を変えたのは、家康軍が放った鉄砲弾でした。しびれを切らした家康は、内通しているにもかかわらず動かぬ小早川軍に向けて、威嚇射撃{いかくしゃげき}を放ったのです。
 すると、この音に呼応してか、小早川秀秋はついに寝返りを決心しました。1万5千もの軍勢が松尾山を下って大谷隊へとなだれ込んできます。すると大谷隊に属していたはずの脇坂{わきさか}・朽木{くちき}・小川{おがわ}・赤座{あかざ}隊も東軍に寝返って大谷隊に向かってきました。
 大谷隊はついに壊滅{かいめつ}し、吉継は鎧{よろい}を脱いで切腹しました。享年42歳。
 吉継の首は、家臣の一人が敵に見つからぬよう羽織に包んで近くの水田に埋めたともいわれています。主を失い、残された250余名の家臣は、全員敵中に突撃{とつげき}し、見事に玉砕{ぎょくさい}したと伝えられています。

 一方、石田三成に高禄{こうろく}で召し抱えられた島左近も討ち死にしました。関ヶ原の戦いの際、夜討ちを強く主張しましたが、宇喜多秀家らによって退けられました。作戦が受け入れられなかった時、すでに敗戦を覚悟{かくご}した左近は、家臣の一人に
「老母の面倒をよろしく頼む」
そう言い残し、出陣していきました。
 東軍の黒田{くろだ}・細川{ほそかわ}・藤堂・京極らの軍を次々に撃破{げきは}して西軍の士気{しき}を高めましたが、小早川軍の寝返りによって形成が逆転する中、壮絶{そうぜつ}な死を遂{と}げました。"名将"という名に恥じない奮戦{ふんせん}ぶりだったと伝えられています。

 「あなたは、悩みを相談できる友だちが何人いますか?」
という質問に、日本人の場合、平均3人だったという調査結果があります。
 長い人生の間には、数えきれないほどの人と人との出会いがあります。しかし、本当に心を分かち合って相談し合える親友はわずかです。しかも「自分のために命を捧{ささ}げてもよい」などという親友は、皆無{かいむ}に等しいでしょう。
 関ヶ原の戦いは、日本人の誰もが知っている戦いですが、大谷吉継と石田三成の友情についてはあまり知られていないようです。

 出来得るならば、お互い言いたいことが言い合える、心から通じあえる親友が沢山欲しいですね。


◆  民衆とともに戦った人たちーー佐倉惣五郎と多田加助ーー 「心に残る人生ドラマ30話」より

 江戸時代に発生した百姓一揆{いっき}の数は、3000件以上といわれています。
 当時の農民は、収穫高の4割から5割を年貢{ねんぐ}として領主に納{おさ}めていました。収穫高の4割を年貢として納めることを四公六民、5割納めることを五公五民と言います。これはごく一般的なもので、厳{きび}しいところでは八公二民という藩{はん}もあったそうです。
 1798年(寛政10年)に本多利明{ほんだとしあき}が書いた『西域物語{せいいきものがたり}』という本の中には、幕府の勘定奉行{かんじょうぶぎょう}の役人であった神尾春央{かんおはるひで}の放言として、
「胡麻{ごま}の油と百姓は、絞{しぼ}れば絞るほど出るものなり」
という言葉が記述されています。
 同じ人間でありながら、当時の農民は酷{ひど}い扱いを受けていたわけです。
 日照りや冷害、台風などで収穫高が落ちた年は、大変でした。食べ物が無くなると木の根や草、ネズミやヘビなどを食したり、土を鍋{なべ}で煮て食べました。天明{てんめい}の大飢饉{ききん}の様子を描いたとされる『凶荒図録』{きょうこうずろく}には、その悲惨{ひさん}な姿がリアルに描かれています。
 生活に堪{たま}り兼{か}ねた農民たちは、様々な方法で領主や代官に自分たちの苦しみを訴えました。鎌{かま}や鍬{くわ}を手にし、むしろ旗を掲げて領主の居城や代官所へ集団で押しかける場合もありました。これが百姓一揆です。
 しかし、一揆は合法的に認められた行為ではなかったので、一揆を起こした首謀者{しゅぼうしゃ}には厳罰{げんばつ}が処せられました。全国各地には、農民の代表として一揆を起こし処罰された義民伝{ぎみんでん}が数多く残っております。
 その中の一つとして、下総{しもふさ}の国(今の千葉県)の佐倉惣五郎{さくらそうごろう}(木内宗吾{きうちそうご})の例を取り上げてみましょう。

 惣五郎の住む佐倉藩は、当時堀田{ほった}十一万石の城下町として発達し、成田詣{なりたもうで}での宿場としても賑{にぎ}わっていました。
 1651年(慶安4年)、3代将軍・徳川家光{とくがわいえみつ}が亡くなると老中である佐倉藩主・堀田正盛{まさもり}は、将軍の後を追って殉死{じゅんし}しました。この年、父親に代わって息子の正信{まさのぶ}が佐倉藩主となりましたが、突然年貢の増税を開始したことが事の始まりでした。
 困った200余りの農村の名主たちは、代官所や家老に農民の窮状{きゅうじょう}を訴えましたが、無視されてしまいました。そこで代表者が、江戸にある佐倉藩の屋敷まで出かけていき交渉しましたが、これもダメでした。
 ついに農民たちの代表として6人が選ばれ、時の老中・久世広之{くぜひろゆき}に訴{うった}えることとなりました。といっても、農民が老中と直接面会して話をすることなど出来ません。そこで、老中が駕籠{かご}に乗って道を通るのを待ち伏せし、訴状{そじょう}を差し出そうとしました。しかし、途中で供の武士に遮{さえぎ}られ、駕籠まで近づくことさえ出来ませんでした。
 そんな矢先のこと、公津{こうづ}村の名主であった惣五郎は、たった一人で将軍に訴えることを決意します。
 1652年(承応元年)、4代将軍・徳川家綱{いえつな}は、上野の寛永寺{かんえいじ}に参拝することになっていました。これを聞いた惣五郎は、途中の下谷広小路{したやひろこうじ}にある三前橋{さんまえばし}の橋下で、将軍がやって来るのを待ち伏せしていました。やがて将軍の乗った駕籠が橋の中程までやってきた時、惣五郎は橋の下から飛び出し、竹竿{たけざお}の先に結びつけた訴状を差し出しました。
 惣五郎の必死の行動は効{こう}を奏{そう}し、訴状を渡すことに成功しました。そして、将軍の計いで年貢の減免が行われることとなりました。


 この頃の様子について、地元では次のような言い伝えが残っております。
 老中への訴えが失敗した後のある雪の夜。将軍への直訴{じきそ}を決意した惣五郎は、江戸から戻り、印旛沼{いんばぬま}の渡し守・甚兵衛{じんべえ}の家を訪れます。彼は、「妻子に別れを告げたいので舟を出して欲しい」と、甚兵衛に頼みます。
 しかし、当時暮れ六つ過ぎの印旛沼の渡しは禁止されておりました。甚兵衛は、惣五郎の頼みを断りきれず、舟を出します。その後、彼は責任が他の渡し守に及ぶことを恐れ、沼に身を投じて亡くなったと伝えられています。
 我が家に帰った惣五郎は、妻・お欽(きん)へ離縁状{りえんじょう}を差し出しました。罪が妻子にまで及ぶことを恐れたからでした。妻のお欽は夫に取りすがり、泣きながら「どうか一生、夫婦でいておくれ」と、訴えます。
 その言葉に惣五郎は、離縁状を破り捨てて再び江戸に向かったといいます。
 惣五郎の将軍への直訴は成功し、老中・松平伊豆守{まつだいらいずのかみ}(信綱{のぶつな})の口添えもあって年貢は減免されました。しかし、当時将軍への直訴{じきそ}は禁止されていました。その結果、惣五郎とその家族は死刑ということに決まったのです。
 1653年(承応2年)9月3日。公津カ原{こうづがはら}で、惣五郎とその妻・お欽、そして4人の子供たちは磔{はりつけ}の刑に処せられました。一説には、4人の子供のうち、3人までが女の子だったといいます。領主・堀田正信は、3人の女の子に男の子の名前をつけ、女子ではなく男子として処刑したとも伝えられています。年齢は、上から11歳、9歳、6歳、3歳でした。
 1851年(嘉永4年)のこと。江戸の中村座で上演された芝居{しばい}『東山桜荘子』{ひがしやまさくらのそうし}が大評判となりました。これは、時代を室町時代とし、名前も惣五郎は朝倉当吾{あさくらとうご}、藩主・堀田正信は織越大領{おりこしだいりょう}と変えてありますが、題名の"桜"からは佐倉藩を連想出来ますし、"当吾"が惣五郎をひねったものであることは、芝居を見た誰もが気付いていました。
 芝居では有名な佐倉惣五郎ですが、しばらく前までは「惣五郎は架空の人物で、実在しなかったのではないか」と主張する研究者もおりました。この論争に決着を付けたのは児玉幸多{こだまこうた}氏で、当時の名寄帳{なよせちょう}に"惣五郎"という名前があることなどから、実在の人物であることが確認されました。名寄帳によると、惣五郎は3町6反の田畑を持ち、9畝10歩の屋敷を持っていた農民で、当時としては名主クラスであったことがわかりました。
 現在、成田{なりた}市宗吾{そうご}の東勝寺{とうしょうじ}にある宗吾霊堂{そうごれいどう}は、惣五郎とその妻子の霊を弔{とむら}うために建てられたものであるといわれています。9月3日は、彼らが処刑された命日なので、毎月3日は参拝客でお線香の煙が絶{た}えません。また命日の前日である9月2日には、通夜{つや}のお籠{こも}りが現在でも行われています。

 もう一つ、信濃{しなの}の国(今の長野県)松本で起った加助{かすけ}騒動について取り上げてみたいと思います。
 現在、松本市街の中心にそびえ立つ松本城{まつもとじょう}。天守閣{てんしゅかく}が黒く塗られていることから、別名"烏城{からすじょう}"ともいわれ、白亜の天守閣で知られた姫路城{ひめじじょう}とは対照的です。
 松本城は、1590年(天正18年)に石川数正{いしかわかずまさ}によって築かれました。石川氏の後、小笠原{おがさわら}、戸田{とだ}、松平{まつだいら}、堀田{ほった}、水野{みずの}、戸田{とだ}各氏の居城となり、明治維新を迎えています。
 時は、江戸時代の前期。松本藩は水野氏が支配する7万石の藩でした。1686年(貞享3年)のこと。この年は雨が多く、米が不作でした。そのうえ疫病{えきびょう}も流行して多くの死者が出ました。村々では、何とかこの年の年貢を軽くしてくれるよう藩の役人に掛け合いましたが、ぜんぜん応じてくれません。そこで中萱{なかがや}村の名主をしていた多田加助{ただかすけ}をはじめ、各村の代表者が集まり領主に直接直訴することを決めました。
 ところが、この話を聞いた農民たちは、自分も城下に行って訴えようとする者が次第に増え、ついに2000人もの農民が城下にやってきました。城下の騒{さわ}ぎが幕府の耳にでも入ったら、藩の取り潰{つぶ}しにもなりかねません。それを恐れた城主・水野忠職{みずのただもと}は、あわてて年貢の率を下げることを加助たち農民に約束しました。
 しかし、それはウソでした。その後、加助をはじめ8人の農民の代表と彼の身内の者21人余りが、藩の役人によって捕らえられました。そして、8人には磔{はりつけ}、残りの人たちは斬首{ざんしゅ}され殺されました。
 この時、加助は磔台から松本城の天守閣をにらむと、
「わしの一念で、あの天守閣を傾け、後々まで藩主に祟{たた}ってみせるぞ」そう叫んで刑場の露{つゆ}と消えました。
 その直後のことです。突然、大地震が起こりました。城の屋根瓦も落ち、壁{かべ}には亀裂{きれつ}が入るほどの大地震でした。地震が止むと、天守閣は少し傾いていました。
 それから30年後、水野家は滅亡{めつぼう}しました。地元の人々は、これは加助のたたりだと伝えています。

 1950年(昭和25年)のこと。松本城の解体修理が行われた際、わずかに天守閣が西の方角に傾いていることがわかりました。これが、加助の処刑の際に起こった地震のせいかどうかは確認されていません。なお現在、長野県南安曇野{あずみの}郡にある三郷{みさと}村には、この時の騒動を伝える記念館(貞享義民{じょうきょうぎみん}記念館)が建てられています。

 現在、世界の人口は60億人。このうち餓{う}えに苦しんでいる人は12億人。日本は豊かな国になったとはいえ、未だに世界中には5人に1人が餓えと戦っています。毎日、3度の食事を食べることを私たちは当たり前のように思っていますが、「当たり前のことが当たり前ではない」人たちが沢山いることを知らなくてはいけません。
 今の日本は、犯罪大国で財政的にも将来への不安が多々あります。しかし、このことを知らなくてはいけません。
「餓えに苦しむこともなく、戦争で命を失うこともない世界が、この世の楽園であるという事実を……」


◆  逆境をどう生きるかーー西郷隆盛ーー 「心に残る人生ドラマ30話」より

「獄中感有り(ごくちゅうかんあり)」
朝(あした)に恩遇(おんぐう)を蒙(こうむ)り夕(ゆうべ)に焚坑(ふんこう)せらる
人生の浮沈{ふちん}は晦明(かいめい)に似たり
縦(たと)い光を回(めぐ)らさずとも葵(あおい)は日に向かう
若(も)し運を開く無くとも意(い)は誠(まこと)を推(お)さん
洛陽(らくよう)の知己(ちき)皆(みな)鬼と為(な)り
南嶼(なんしょ)の俘囚(ふしゅう)独(ひと)り生(せい)を窃(ぬす)む
生死何(なん)ぞ疑わん天の附与(ふよ)なるを
願わくは魂魄(こんぱく)を留{とど}めて皇城(こうじょう)を護(まも)らん

(訳)
朝には恩恵{おんけい}を受けていたのに、夕方には穴埋めの刑に処せられる。人生の浮き沈みは、一日の昼夜に似ている。
たとえ日が当たらなくても、葵の葉は太陽に顔を向ける。
たとえ自分の運は開かなくても、心はどこまでも忠誠{ちゅうせい}を尽{つ}くすつもりである。
思えば、都(京都)の友人(勤皇{きんのう}の志士)は、皆死んでしまい、
南海の小島の獄{ごく}にいる自分一人だけが、生き残っている。
生と死とは、天が与えてくれるものである。
ただ願うのは、魂だけはここに留{とど}めて帝{みかど}のいる城を守り続けたいものである。

 人生とは、まったく分からないもので、一寸先は闇{やみ}です。今まで大企業に勤めていた者がリストラにあい、仲がよかった恋人同士が別れ、幸せを絵に描いたような家族が突然不慮{ふりょ}の事故に見舞われる。
 いつ不幸が襲{おそ}ってくるかもしれない人生ですが、大切なのはその逆境をいかに生きるか。転んでも嘆{なげ}かず諦{あきら}めず、頑張り抜いて起き上がった時にこそ、真の人生の価値が見えてくるものです。
 「獄中感有り」は、西郷隆盛{さいごうたかもり}が薩摩{さつま}藩主・島津久光(しまづひさみつ)に逆らった罪で、沖永良部{おきのえらぶ}島に流された時に記したものです。
 西郷隆盛の魅力は、逆境の中においてもけっして不遇を嘆「なげ}かず、天命を恨{うら}まない生き方にあります。彼は、逆境をバネとし、それを人生の糧{かて}として成長していった人物とも取れます。
                               
 隆盛は、1859年(安政6年)から約5年近くにわたり島流しの生活を送っています。初めは、奄美大島{あまみおおしま}に流されました。流された理由は、京都で倒幕{とうばく}運動していた際に知り合った清水寺{きよみずでら}の僧・月照(げっしょう)を鹿児島に連れてきてかくまったことによります。
 時は"安政の大獄{あんせいのたいごく}"時代。大老・井伊直弼{いいなおすけ}は、幕府を批判する者たちを次々と捕らえては処刑していきました。幕府の手が月照にまで及んだ際、隆盛は鹿児島に連れてきてかくまったのですが、隠し切れなくなり、二人はついに錦江(きんこう)湾に身投げします。すぐに引き上げられたのですが、月照は亡くなり、隆盛だけが息を吹き返して助かりました。
 薩摩藩では、月照をかくまった隆盛にも幕府の手が及ぶことを予想して、彼をとりあえず死んだことにして、しばらくの間、奄美大島に隠すことにしました。名前も「菊池源吾(きくちげんご)」と変えてから島送りにしました。
 それから3年後の1862年(文久2年)、隆盛は鹿児島に戻ってきますが、わずか4カ月後、藩主・島津久光の怒りをかって徳之島{とくのしま}に、さらに沖永良部島へと流されました。この時の理由は、藩主の命令に背いたという理由でした。
 この年、薩摩藩主である久光は、文久{ぶんきゅう}の幕政改革を幕府に提言するために上京することを決めていました。予定では、まず隆盛を先に上京させてから、自分も後から藩兵を引き連れて行くつもりでした。
 ところが、隆盛が下関までやってくると、不穏{ふおん}な動きを耳にしました。それは、薩摩藩士・有間新七(ありましんしち)らが京都で倒幕挙兵の反乱を起こす準備をしているとのうわさです。
「早く京都に上って、彼らを説得しないと大変なことになる」
 そう直感した隆盛は、藩主の到着を待たず、すぐさま船で大坂(今の大阪府)に向かいました。
 ところが、後からやってきた久光が下関に到着してみると、約束の場所に隆盛がおりません。藩主の命令を無視した彼は、久光の怒りをかい、こうして徳之島へと流されたのでした。藩のためにと思って行なった行為が、仇{あだ}となったのです。

 長いサラリーマン人生の中では、いろいろなことがある。会社のためにと思ってやったことが仇{あだ}となり、減給・降格・左遷{させん}・配置転換……などなど、納得出来ないことが数多い人生。西郷隆盛の人生もそうだった。しかし、そんなことで負げる彼ではなかった点が、素晴らしい。

 沖永良部島に流された隆盛は、そこで川口雪篷(かわぐちせっぽう)に出会いました。雪篷は、漢詩{かんし}や書道の名人として知られている文化人です。彼は、約1年半の間、雪篷から漢詩や書道を学びました。隆盛は、その生涯の間に多くの漢詩や書を残していますが、それは、この時の出会いが大きく影響していると言われています。
 その他、隆盛の人生に大きな影響を与えた人物としては、迫田太次右衛門(さこたたじえもん)と赤山靭負(あかやまゆきえ)が知られています。
 彼は18歳の時、郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)という職につきました。郡方{こおりかた}とは、農民が藩に納める米の出来具合を調べ、年貢を取り立てる仕事ですが、ここに27歳まで勤{つと}め、年貢で苦しんでいる農民たちと直に接してきました。この時、上役として働いていたのが太次右衛門でした。
 ある年のこと。台風のために農作物が不作だっので、太次右衛門は年貢を減らすよう藩に願い出ました。しかし、「年貢を減らすことは、まかりならぬ」という返事でした。願いを聞き入れられなかった太次右衛門は、これに抗議{こうぎ}し職を投げました。このことは、若き隆盛の心にも深い感銘{かんめい}を与えたといわれています。
 もう一人の赤山靭負も若き隆盛に目をかけてくれた人物でした。当時、薩摩藩内では、島津斉興(なりおき)の後継ぎを巡{めぐ}って斉彬(なりあきら)派と久光(ひさみつ)派とが争っていました。久光は、お由羅{ゆら}という斉興の愛妾{あいしょう}の子で、斉彬の異母弟に当たります。藩内では、久光派が斉彬派を除こうとする動きがありました。これが「お由羅(おゆら)騒動」という御家騒動にまで発展しました。靭負は、この騒動に巻き込まれて切腹を命じられた人物です。
 切腹を前に靭負は、若き隆盛に人生の道を説きました。隆盛は、血潮{ちしお}がにじんだ肌着を父親から見せられると、一晩中泣き明かしたと伝えられています。

 隆盛は、38歳の時にようやく罪を許されて鹿児島に戻ってきます。
 しかし、この時すでに天下の情勢は大きく変わっていました。薩摩藩は、イギリスとの戦い(薩英{さつえい}戦争)で、外国を打ち払う攘夷{じょうい}が不可能なことを知りました。一方、長州藩でも米英仏蘭{べいえいふつらん}による下関砲撃{しものせきほうげき}事件により攘夷の不可能さを散々思い知らされました。隆盛は、このような情勢を見て、
「もはや徳川幕府の時代ではない。薩摩藩と長州藩とが手を組んで幕府を倒し、新しい日本を作る時代である」
 そう考えるようになりました。
 1866年(慶応2年)、坂本竜馬{さかもとりょうま}の取り計らいによって、隆盛は長州藩の木戸孝允{きどたかよし}と会見し薩長{さっちょう}同盟を締結{ていけつ}させます。その後、薩摩藩と長州藩は手を結び、ついに徳川幕府は崩壊{ほうかい}します。

 隆盛は、明治維新に力を尽{つ}くしましたが、自分自身が新政府の中心人物になろうという気持ちはありませんでした。
 明治政府は、賞典禄(しょうてんろく)というものを作り、維新の功労者に俸禄{ほうろく}として与えました。隆盛には年間2000石が与えられましたが、これらの俸禄はすべて私学校{しがっこう}作りに差し出しました。また政府は、彼に正三位(しょうさんみ)という官位を与えようとしましたが、この官位は元藩主である島津忠義(ただよし)よりも高くなるため、彼は頑{かたく}なに辞退しました。
 しかし、明治政府は彼の実力を惜{お}しみ、その力を強く必要としたため、45歳の時、参議{さんぎ}という役職を与えられ、政界に復帰{ふっき}しました。それから2年後、征韓論(せいかんろん)に敗れて下野{げや}した彼は、「今度こそ静かな生活を」と願っていました。しかし、私学校の生徒らに再び担ぎ出され、西南戦争を起こします。そして、この戦いに敗れた隆盛は、51歳という短い一生を終えました。
 この時、我々日本人は、西郷隆盛という惜{お}しい人物を失いました。だが、隆盛が残していった数多くの遺訓{いくん}は、今でも私たちの心を打って止みません。最後にその中の一つをご紹介してみましょう。

総じて人は己(おの)れに克(か)つを以{もっ}て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能(よ)く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事{そのこと}大抵十に七八迄{まで}は能{よ}く成し得れ共{ども}、残り二つを終る迄{まで}成し得る人の希(ま)れなるは、始{はじめ}は能{よ}く己{おの}れを慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕(あらわ)るるなり。功立ち名顕るるに随{したが}い、いつしか自ら愛する心起り、恐懼(きょうく)戒慎(かいしん)の意弛(ゆる)み、驕矜(きょうきょう)の気漸(ようや)く長じ、其{その}成し得たる事業を負(たの)み、苟(いやしく)も我が事を仕遂げんとまずき仕事に陥り、終{つい}に敗るるものにて、皆自ら招く也{なり}。故{ゆえ}に己{おの}れに克(か)ちて、みず聞かざる所に戒慎(かいしん)するもの也{なり}。

(訳)
 一般に人は、自分に勝つことによって成功し、自分を愛することによって失敗する。歴史上の人物を見るとよい。事業を始める人の大半は、事業の7、8割まではよく成し得るのに、残りの2割を成し遂{と}げる人が少ないのは、初めのうちは自分を慎{つつし}んで、事業に対しても慎重{しんちょう}に行なうから成功もし、有名にもなる。しかし、成功し有名になるにつれ、いつのまにか自分を愛する心が起り、自分を戒{いまし}めるという心が緩{ゆる}んで、傲{おご}り高ぶる気持ちが生じて、その成功した事業をたのみに自分は何でも出来るという過信から、まずい仕事をするようになり、ついに失敗してしまう。これらは皆、自ら招いた結果である。従って、絶えず自分に勝ち、人が見ていない所聞いていない所でも自分を戒めておかなくてはいけない。


◆  教育の原点となった学校を作った人ーー吉田松蔭ーー 「心に残る人生ドラマ30話」より

 皆さんは、学校へ行くのが楽しかったですか。あるいは、楽しいですか。
 私自身は、けっして優等生であったわけでなく、学校へ行く唯一の楽しみは恥{は}ずかしいながら給食を食べることでした。
 「もしもこんな学校があったら、入学してみたいな」
 そう思える学校を歴史を紐解{ひもと}きながらいろいろ探してみましたが、やはり松下村塾{しょうかそんじゅく}が最高ではないでしょうか。

 松下村塾を作った吉田松蔭{よしだしょういん}は、1830年(天保元年)に長門{ながと}の国(今の山口県)萩{はぎ}に生まれました。父親の杉百合之助(すぎゆりのすけ)は、わずか26石取りの下級武士で、細々と農業を営みながら生計を立てていました。
 松蔭は、5歳の時に叔父である山鹿(やまが)流兵学師範{しはん}の吉田大助(よしだだいすけ)の養子となり、父の弟・玉木文之進(たまきぶんのしん)に学問の手解きを受けました。
 文之進は、後に乃木(のぎ)将軍の師匠となった人で、頑固一徹{がんこしってつ}で大変気性の激しい性格だったといいます。近所の子供たちは、文之進が側を通るだけで、泣いていた子も泣き止んだという逸話{いつわ}さえあります。幼い松蔭に対しても、「物覚えが悪い」と言っては襟首をつかんで庭に引きずり降ろし、「本を読む声が小さい」と怒鳴{どな}っては殴{なぐ}り飛ばすなど大変厳{きび}しいものでした。しかし、彼はそれに耐え、様々な知識を吸収していきました。
 9歳の時には、長州{ちょうしゅう}藩の藩校である明倫館(めいりんかん)に家学教授見習{かがくきょうじゅみならい}として出仕し、11歳の時には、藩主である毛利敬親(もうりたかちか)の前で山鹿素行(やまがそこう)の『武教全書』(ぶきょうぜんしょ)の一篇を講義{こうぎ}しました。
「兵法に、まず勝って後に戦うという言葉があります。戦いをしない前に敵に勝つ判断、戦略を立て、大将と兵が心を一つにしてこそ……」
 少年のよどみ無い講義に、藩主である敬親は
「この子の兵学の講義は、大変面白い」
そう絶賛{ぜっさん}し、たびたび彼を城に招いては聴講{ちょうこう}したといいます。

 少年時代の松蔭に強い影響を与えた人物に、山田字衛門{やまだじえもん}がいます。字衛門は、吉田大助の門下生でしたが、軍学の他に海外知識の必要性を説{と}きました。江戸で入手した『坤輿図鑑(こんよずかん)』を彼に送り、それに書かれた世界地図を示しながら
「日本という小さな国を守るためには、まず世界情勢を知ることが大切である」と教えました。
 松陰は、21歳の時に長崎に遊学し、アヘン戦争によって欧米列強の半ば植民地化した中国の実情を知りました。翌年には、藩主に従って江戸に出た機会に、佐久間象山(さくましょうざん)から欧米の学問や兵学を学びました。さらにロシア軍艦{ぐんかん}が出没するという津軽{つがる}海峡を見学するために藩の許可なく、脱藩{だっぱん}を覚悟{かくご}で東北地方を旅行し見聞を広めました。
 当時、藩の許可なく他藩へ行くことは"脱藩"と見なされ、大変罪の重いものでした。案の定、彼の帰りを待っていたのは厳しい処置でした。兵学師範{へいがくしはん}の資格も士籍{しせき}も家禄{かろく}も召し上げられ、「長州に帰って謹慎{きんしん}せよ」との命令でした。
 その後、彼の才能を惜{お}しむ藩主の特別な計{はから}いで罪を許され、参勤交代に随行{ずいこう}という名目で二度目の江戸行きが実現しました。
 江戸にやって来た直後のこと。アメリカ総督{そうとく}・ペリーが、軍艦4隻{せき}を引き連れて浦賀{うらが}に現れました。そこで松陰が目にしたもの。それは、外国の軍事力の強さでした。これまで学んできた日本の兵学が、実に頼りないもので役立たないことを知らされたのです。松蔭は、思いました。
「ぜひとも自ら外国に行って、いろいろな知識を身につけてみたい」
 翌年、再びペリーが日本へやって来た際、ついに松蔭は海外への密航{みっこう}を企てます。
 1854年(安政元年)3月27日の夜のこと。金子重輔(かねこじゅうすけ)と共に伊豆の下田沖に停泊{ていはく}しているペリーの軍艦に向かい、小舟を漕{こ}いで乗船を試{こころ}みました。しかし、日米和親条約{にちべいわしんじょうやく}を取り交わした直後のことでしたので、ペリーは幕府の許可の無い二人の海外渡航を拒否しました。
 松蔭ら二人は、その日のうちに下田番所に自首したため、ひとまず下田にある平滑(ひらなめ)の牢獄{ろうごく}に入れられた後、江戸に送られ、さらに萩の野山獄(のやまごく)に護送{ごそう}されました。
 結局、松陰の願いは、叶{かな}いませんでした。だが、後にペリーは『日本遠征記{にほんえんせいき}』という本の中で、命の危険を顧{かえり}みず、知識を増やしたいという純粋な目的で行なった二人の行動を絶賛{ぜっさん}しました。そして、このような若者がいる日本について、
「この国の将来は、なんと有望なものか」
とさえ言い切っているのです。

 国家の将来は、若者にある。どのような若者がいるかで、その国の将来も明るいものか暗いものかがおのずと見えてくる

 翌年、野山獄から仮出獄となった彼は、実父・杉百合之助の屋敷に幽閉{ゆうへい}の身となり、そこで開いたのが松下村塾という学校です。名前の由来は、「萩城下{はぎじょうか}の郊外にある松本村の塾」から名付けられました。
 松下村塾は、月謝を取りませんでした。塾生は、自分の家で取れたイモや野菜、米などを月謝代わりに持ってきては、それを皆で分けあって食べたと言われています。塾での生活には、昼夜の別がなく、高杉晋作{たかすぎしんさく}のように家族に内緒{ないしょ}で夜やって来る者もいました。勉強に熱中して徹夜する者もいましたが、松蔭はそれに付き合いました。時には先生と生徒がこたつに足を入れて寝そべり、徹夜で漢詩を作り競{きそ}い合いました。
 塾生の年齢、身分も様々で、学力にも差がありました。授業の基本は、一対一のマンツーマン方式で、時には数人を集めて『日本外史{にほんがいし}』などを読んだという記録が残っています。教科書を持っていない者には、松蔭が自分の蔵書{ぞうしょ}を貸し与えました。
 また時には、野外に塾生たちを連れ出し、兵術の訓練をしました。家の近くの河原などで行ないましたが、遠くまで出かける際は、リーダー格の者が引率{いんそつ}しました。松蔭自身は謹慎{きんしん}の身であるため、遠出は出来なかったのです。
 松蔭は、普段は優しく低い声でしゃべりました。「勉強なされませ」というのが、口癖{くちぐせ}でした。ほとんど塾生を叱{しか}りませんでした。松下村塾の門下生で中島靖九郎{なかじまやすくろう}という者が、10歳の時に初めて松陰と出会った時の思い出を後に文章にしています。

 徒歩でかなり遠い松本村まで行ってみると、塾には誰もいなくて、上がって待っていたら粗末な身なりをした目のキラキラ光る人が出て来て、「お前は、本を読むのか」と聞かれました。そして「わが輩{はい}が教えてやろう」と言って、すぐに『国史略{こくしりゃく}』という本を開いて熱心に教え始めたが、知らない文字があっても構{かま}わないといった感じで、わずか10歳の鼻たれ小憎に国家の大事を説いて聞かせる。あっけに取られて見ていたが、かれこれ半時ばかりもするうちに松陰先生に心を吸い取られてしまったようだ。家に帰っても、本のことよりも先生のキラキラした目が頭の中で往来し、まるで夢心地であった。

 また明治維新後、内務{ないむ}大臣にもなった品川弥二郎{しながわやじろう}は、当時の思い出をこう述べています。
「松陰先生は、歴史を読むには自ら歴史中の人物にならねばならぬと言いました。楠木正成{くすのきまさしげ}のことを読めば正成の気持ちで、足利尊氏{あしかがたかうじ}を読めば尊氏の気持ちで読まねばならない。……時には、楠木公になりきってしまって、感極{かんきわ}まってはらはらと涙を流されました」

 彼が松下村塾で教鞭{きょうべん}を取ったのは、1856年から58年にかけての2年余りでしたが、塾生の中には明治維新を陰で支えたそうそうたる人物が大勢おりました。高杉晋作{たかすぎしんさく}、久坂玄瑞{くさかげんずい}、伊藤博文{いとうひろふみ}、山県有朋{やまがたありとも}、木戸孝允{きどたかよし}、井上馨{いのうえかおる}、前原一誠{まえばらいっせい}、品川弥二郎{しながわやじろう}などです。
 わずか2年余りの教育で、これだけの偉人を輩出{はいしゅつ}したということは、驚きに値します。

 松蔭が17歳の時に書いたという『書名録{しょめいろく}』には、「有限の力を持って有用の学を成さんと欲す」という文章が記述されています。
「学問をして学者になろうなどと思うのは、間違いです。学者という者は、本を読んでおれば誰にでもなれる者です。しかし、学問をするのに大切なのは志{こころざし}です。志のない学問は、何もなりません」
 それが、松陰の口癖でした。
 
 17歳の時、松蔭は世の中に役立てようと思い学問に専念した。同じ頃、私は恥ずかしいながら良い大学に入ろうと思い勉強した。結局、私の学問が身につかなかったのは、大きな志(高い理想)がなかったからだと後に気付いた。

 松蔭は、次のようにも述べています。
「みだりに人の師となるべからず、人を師とすべからず。真に教うべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし」

 決していい加減な気持ちで先生になってはいけない。また決していい加減な気持ちで生徒となってはいけない。何を教えるのかという目的があってこそ先生となり、何を学ぶべきかという目標があってこそ生徒となる。

 1859年(安政6年)4月のこと。松陰は、大老{たいろう}・井伊直弼{いいなおすけ}が行なった一連の事件(安政{あんせい}の大獄{たいごく})に激怒{げきど}し、幕府への批判を強めたという理由で逮捕されました。
 いよいよ萩から江戸の獄{ごく}へ護送されるという前日のこと。
 松陰は、特別な計いで実家に戻って来ました。獄の役人である福川犀之助{ふくかわさいのすけ}が、藩の法律を犯しながらも行なった好意でした。犀之助は、かつて野山獄での松陰の『孟子{もうし}』の講義を聴{き}いて以来、彼を深く尊敬していました。そこで、せめて最後の一夜を両親とともに過ごさせてあげようと思ったのです。
 思ってもみなかった息子の帰宅に、母親の瀧(たき)は風呂を焚{た}き、自ら背中を流してやったといいます。痩{や}せ衰{おとろ}えた息子の背中を流しながら、瀧はこう言いました。
「どうかもう一度、無事な姿を見せておくれ」
「はい、どうかご安心下さいませ」
 松陰は、答えました。
 翌日、降りしきる雨の中、腰縄{こしなわ}をかけられた松陰は江戸へと護送されました。城下を出て、道が上り坂となり、大屋の峠までくると、これまで付き添っていた母親の瀧は、"涙松"の場所で止められました。ここからは萩の城下が一望出来る。これで見定めかと思うとつい涙が出てしまうので、人々はこの一本松を涙松と呼んでいました。
 松陰は、母親と別れる際、決別の一首を詠{よ}みました。

帰らじと思いさだめし旅なれば
  ひとしおぬるる涙松かな

 それから1カ月ほどかかって江戸に送られ、松陰は天馬町(てんまちょう)の獄につながれました。判決は死罪でした。
 死を覚悟した松蔭は、父母に対して次のような別れの歌を詠みました。

親思ふ心にまさる親心
きょうの音づれ何と聞らむ
(訳)
 子供が親を思う以上に親が子供を思う気持ちは強い。今日のこの(死罪という)知らせをどのような気持ちで聞くのであろうか

 また処刑される二日前の10月25日には、『留魂録(りゅうこんろく)』と題するものを書き、その中で辞世{じせい}の句を詠んでいます。

身はたとひ武蔵{むさし}の野辺に朽(く)ちぬとも
       留(とどめ)置かまし大和魂{やまとだましい}
(訳)
 たとえ我が身は、武蔵の国{今の東京都}の地で朽{く}ち果ててしまおうとも、日本のことを思う気持ちだけはこの場所に留めておきたい

 松蔭は、死に臨んでもまったく乱れた様子もなく、警護{けいご}の役人たちにねぎらいの言葉をかけ、静かに処刑の座についたと言われています。享年わずか30歳でした。

 その日の夜こと。
 母親の瀧が、息子の夢を見たという後日談が残っています。
 長男の梅太郎{うめたろう}(松陰の兄)が病気で寝込んでおり、その看病疲れでうつらうつらしていると、突然目の前に松陰が晴れやかな顔で正座しました。瀧が驚{おどろ}いて声をかけると、そのはずみに目が覚めて松陰の姿は消えました。
 そのことを夫・百合之助に話すと、百合之助もまた息子の夢を見たそうです。それは、松陰が少しも取り乱すこともなく首を刎{は}ねられた夢でした。
「もしや息子の身に万が一のことが……」
 心配していると、20日ばかり経{た}って処刑の知らせが届きました。
「あの子は、約束通り、死ぬ前に元気な姿を見せに来てくれたのね」
 母親の瀧は、涙しながらにこう語ったと伝えられています。


◆  無欲に生きた托鉢の僧ーー良寛ーー 「心に残る人生ドラマ30話」より

 良寛{りょうかん}は、1758年(宝暦8年)、越後{えちご}の国(今の新潟県)出雲崎{いずもざき}に町名主{まちなぬし}の子として生まれました。
 長男であったため、一時は父親の後を継ぐべく名主見習となったものの、漁民と代官との間で起こったトラブルの調停{ちょうてい}に失敗したりと失策{しっさく}を繰り返します。やがて彼は、
「自分の進むべき道は別にあるようだ」
と、考えるようになりました。
 18歳の時、実家から家出し、光照寺{こうしょうじ}という禅寺に4年間身を寄せることとなります。そして22歳の時、光照寺に立ち寄った備中{びっちゅう}の国(今の岡山県)玉島{たましま}にある円通寺{えんつうじ}の国仙{こくせん}和尚に弟子入りしました。
 円通寺は、徳翁良高{とくおうりょうこう}が開山した曹洞宗{そうとうしゅう}の寺で、良寛は10年余り、この寺で修業し、33歳の時に印可{いんか}を受けました。彼は、円通寺境内の覚樹庵{かくじゅあん}に住むことを許されましたが、まもなく国仙和尚が亡くなるとこの寺を離れ、放浪の旅に出ます。
 10年近くに渡る放浪{ほうろう}の末、良寛が辿{たど}り着いたのは、故郷に近い寺泊{てらどまり}に五合庵{ごごうあん}という庵を構え、"托鉢乞食"{たくはつこつじき}の生活を送ることでした。
 "乞食{こつじき}"とは、民家を一軒ずつ回って経{きょう}を唱え、そのお返しにその日の食糧{しょくりょう}をいただくという仏道の作法です。飢饉{ききん}が頻発した江戸時代には、常に飢餓{きが}と背中合わせの厳{きび}しい修業でした。
 家出しなければ、一生名主の後継ぎとして食べることには困りません。また寺の住職{じゅうしょく}ともなれば、民家からのお布施{ふせ}で生活していくことが出来ます。しかし、良寛はそのどちらの道も選びませんでした。
 彼は、特に難{むずか}しい説法{せっぽう}を説いたり、書物を書き残すことはしませんでした。しかし、彼の生き様は、今日残された数多くの歌の中にその真意{しんい}を探ることが出来ます。

夫(そ)れ僧伽(そうぎゃ)の風流は 
   乞食(こつじき)を活計(かっけい)と為{な}す

 「僧たるものは、乞食で生活することが本分である」と、良寛は歌の中に自分の生き方を示しました。
 ある日、良寛のところへ長岡{ながおか}藩主・牧野忠精{まきのただきよ}が、領地見回りの帰りに駕籠{かご}で乗り付けてきました。そして、
「長岡に来れば、寺を建ててやってもよい」
と、言ってきました。
 この時、良寛は自分の気持ちをまた歌に託しました。彼は黙って筆を取ると、一句を紙にしたためました。

焚{た}くほどは風がもて来る落ち葉かな

 「炊飯{すいはん}に使うぐらいの落ち葉は、風が運んできてくれるので間に合っています」
 これを読んだ忠精は、黙って立ち去っていったと伝えられています。
 またこんな歌も残しています。

欲無ければ一切足(た)り
 求むる有れば万事窮(ばんじきわ)まる

 「欲が無ければすべては足りるが、貪欲{どんよく}に求めればすべてが不足する」
 "悟りとは、足りるを知ることなり"という言葉がありますが、現代のような物質優先主義は、いつまで経{た}っても心が満たされることはありません。また、"幸せは、いつも自分の心が決める"という言葉があります。
「自分は幸せだと思っている人は幸せで、不幸だと思っている人は不幸である」 当たり前のことのようですが、幸不幸は心の中にあるもので、けっして財産の多少や地位、名誉{めいよ}といった心の外側に有るものではありません。

 良寛は、書道の名人としても知られています。特に阿部定珍{あべさだよし}に書き与えた書は、現在、国の重要文化財に指定されています。彼の書は、死後に価値が出たのではなく、生前から人気があったという点が見事です。
 『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を書いた越後{えちご}の縮(ちぢみ)商人・鈴木牧之{すずきぼくし}は、ある時良寛の書を購入しましたが、後に良寛本人に鑑定{かんてい}して貰{もら}ったところ「贋物{にせもの}」であると言われ、大変ショックを受けたという逸話{いつわ}が残っています。また同じ郷土出身の故・田中角栄{たなかかくえい}氏も、生前は良寛の書のコレクターであったことは有名です。
 ほんの少し筆を走らせれば、それを売って生活出来たはずですが、良寛は言います。
「自分は僧侶であって、書道家ではない」と。
 こんなエピソードが、残っています。
 寺泊の豪商{ごうしょう}・伊勢安(いせやす)の主人が、家の側を通りかかった良寛を無理やり家に招き入れ、金屏風{きんびょうぶ}を出してきて
「これに文字を書いてくれ。書かなければ帰さない」
と、迫りました。
 すると良寛は、筆を取って屏風に向かうと
「いやじゃ、いやじゃ、いやじゃ」
そう書いて、出てきたということです。

 托鉢{たくはつ}を我が生きる道としていた良寛の生活は、決して豊かなものではありませんでした。
 しかし、そんな彼の庵{いおり}にも泥棒が入りました。ところが、部屋中どこを探してもめぼしい物は見当りません。仕方がないので、泥棒は寝ている布団を盗{ぬす}もうとします。それに気付いた彼は、泥棒が盗みやすいようにと寝返りをうったという話です。そして、泥棒が去った後、彼は一句をしたためました。

盗人(ぬすびと)にとり残されし窓の月

 布団だけ盗んでいった泥棒。しかし、本当に価値があるのは「窓から見える月明かりの風流なこと」
 なんということでしょうか。本当の価値は、物ではないと指摘{してき}しているところに彼の生き様が感じられます。
 ある正月のこと。彼の庵に貧しい子供連れの女性が尋{たず}ねてきました。話を聞くと、夫が出稼ぎに行ったきり帰って来ず、沢山の子供を抱えてひもじい思いをしていると言います。
 そうは言っても良寛でさえ、これには困りました。自分が食べるだけでやっとの生活でしたから、とても他人に施{ほどこ}しが出来るほどの余裕がありません。そこで、彼は知人である名主・解良叔問(げらしゅくもん)に手紙を書きました。そして、「この手紙を持って尋ねるとよい」と女性に手渡しました。
 彼女が手紙を携えて解良家を尋ねると、解良家では彼女に沢山の食糧{しょくりょう}を恵んであげました。食べ物ばかりでなく、金品と交換出来るようにと正月の餅{もち}も与えました。後に再び彼女は良寛の庵を訪れ、このことを報告し大変感謝したと伝えられています。
 
人ハ銭{ぜに}無キヲ憂(うれ)フ、我ハ銭{ぜに}ノ多キヲ患(わずら)フ

 良寛が詠んだ歌の一つです。

 良寛は、托鉢の途中で出会った子供たちと一緒に遊ぶのが好きでした。ある日、子供たちとかくれんぼをしていると日が暮れてしまいました。すでに子供たちは帰り、良寛は藁{わら}の中でそのまま眠り込んでしまいました。翌朝、藁を取りにきた農婦に見つかると、「しぃーっ、子供に見つかるとまずい」と小声で言ったといいます。
            
この里に手毬{てまり}つきつつ子供らと
 遊ぶ春日(はるひ)は暮れずともよし

 この歌は、良寛の代表作として知られていますが、托鉢の途中でひたすら子供たちと遊びに興{きょう}じる彼の姿は、何を意味するのでしょうか。それは、おそらく曹洞宗{そうとうしゅう}の開祖・道元{どうげん}の言う"只管打坐(しかんたざ)"(ただひたすら座禅する、という意味)に通じるものではないでしょうか。
 良寛は、農民たちに難しい説法は一切しませんでした。しかし、彼は寺に隠{こも}ってひたすら座禅をするのではなく、人々と共に精一杯日々の生活を生きる。これこそ只管打坐以上の僧侶の生きる道であると悟{さと}ったのです。子供たちと遊ぶ時でさえ、一生懸命になって遊ぶ。これこそ彼の生き様だったのです。

 良寛の人柄を愛し、たびたび彼を家に招き入れた名主・解良叔問の息子栄重(よししげ)は、『良寛禅師奇話{りょうかんぜんじきわ}』の中で、次のような言葉を述べています。
「良寛さまが家に来て泊まられると、家中が仲むつまじく和気{わき}が満ち溢{あふ}れ、帰られてからもしばらくは良い香りがたちこめているようでした」。
 
花は心無くして蝶{ちょう}を招き
 蝶は心無くして花を尋{たず}ぬ
(訳)
 花は招こうという気持ちもなく蝶を招く。蝶は尋ねようという気持ちもなく花を訪れる

 だが人は、自分に利益をもたらしてくれる人には媚{こ}びへつらい近づいてゆく。利益がないとわかると、まるで引き潮のように近づかなくなる。

 良寛は、身分や家柄を問わず、無欲{むよく}を持って人々に接しました。彼が今でも多くの人に愛される理由は、その自然体の生き方にあるのではないでしょうか。

捨てし身をいかにと問{と}はば久方(ひさかた)の
       雨降らば降れ風吹かば吹け
(訳)
 俗世間{ぞくせけん}を捨てた身はいかがであるかと問われれば、雨が降るならば降るに任せ、風が吹くならば吹くに任せて過ごしているとお答えしよう

 1831年(天保2年)の正月のこと。良寛は、74歳の生涯を閉じました。これを悲しむ人は多く、各地から最期の別れを惜{お}しむ人たちが集まってきました。そして、寒中吹きすさぶ中、葬儀{そうぎ}には長蛇{ちょうだ}の列が続いたと伝えられています。


◆  心に染みる万葉の歌の数々ーー防人の歌ーー 「心に残る人生ドラマ30話」より

 『万葉集』は、770年頃に成立したとされる日本最古の和歌集です。仁徳{にんとく}天皇から759年(天平宝字3年)までに作られた和歌4500首が収{おさ}められています。
 山上憶良{やまのうえのおくら}、山部赤人{やまべのあかひと}、大伴旅人{おおとものたびと}、大伴家持{おおとものやかもち}など、『万葉集』に登場する万葉歌人はよく知られていますが、彼らに混じって我々の心を打つのが防人{さきもり}の歌です。

 663年(天智2年)、日本・百済{くだら}の連合軍は、唐{とう}・新羅{しらぎ}の連合軍に敗れ、ついに百済の国は滅びました。これが有名な白村江{はくすきのえ}の戦いです。勢いに乗った唐・新羅の軍隊が日本に攻めてくることを恐れた天智{てんじ}天皇は、その防衛のために壱岐{いき}、対馬{つしま}、筑紫{つくし}(北九州)に防人を配置しました。
 防人の多くは、東国の成人男子が選ばれました。各地方から招集された防人たちは、各国ごとに国司{こくし}に引率されて難波津(なにわづ:今の大阪港)までやってきます。そこで検閲{けんえつ}を受けてから、船に乗せられて瀬戸内航路で北九州の太宰府{だざいふ}に向かい、防人司{さきもりのつかさ}のもとで任務につきました。
 3年間の勤務でしたが、今の単身赴任とはだいぶ違い、3年後に生きて帰れるかどうかもわかりません。また任期が終わっても、帰る時の諸経費はほとんど出ませんでした。そのため、地元に土着してしまったり、行き倒れになることも多かったようです。
 さらに残された家族にとっても大変でした。一家の稼{かせ}ぎ手を失うので、生活もままならないことも多かったようです。防人に選ばれた夫にとっても、また残された家族にとっても大変辛く悲しいものでした。

 755年(天平勝宝7年)、『万葉集』の編者として知られる大伴家持が、防人検閲{けんえつ}の兵部省{ひょうぶしょう}の次官に任ぜられました。家持は、彼らに歌を募{つの}らせると166首の歌が集まりました。このうちの84首を採録{さいろく}して『万葉集』に載{の}せたため、今日まで防人の歌が残されることとなりました。

 ここで、私が学生時代によく口ずさんだ防人の歌をいくつかご紹介してみましょう。

韓衣{からころむ}裾に取りつき泣く子らを置きてぞ来ぬや。母{おも}なしにして。
(訳)
着物の裾に取りすがって泣く子供たちを置いてきてしまったなぁ。母親もいないというのに……

 母親が死別したのか、何かの事情で母親を亡くした子供を置き去りして行かなくてはならない防人の悲痛な叫びが、耳元で聞こえてきそうな歌です。個人的な事情を無視した形で、防人の招集が行われていたことを物語っています。それにしても、親の無い子供たちはその後どうなったのでしょうか。なんともやりきれない気持ちです。

わが妻はいたく恋ひらし。飲む水に影さへ見えて世に忘られず。
(訳)
私の妻は、私のことを大変恋しく思っているらしい。飲んでいる水にさえ妻の姿が見えて、どうにも忘れられない

 当時、「水に影が映るのは、相手が自分のことを思っているからだ」と考えられていました。しかし、現代の心理学では、「自分が相手のことをいつも思っているせいで、川で掬{すく}った水の中にさえ姿が見えてしまう」、そのように解釈しています。防人の「別れてきた妻のことが、いつまでも忘れられない」切ない気持ちが、伝わってきそうな歌です。

わが妻も画{え}に描きとらむ暇{いづま}もが。旅行く吾{われ}は見つつ偲{しの}はむ。
(訳)
妻の絵を描き取るほどの時間があればなぁ。そうすれば、旅の途中でも絵を見ては思い出すことが出来るのに

 写真など無かった当時は、似顔絵を持参して遠く故郷のことを思い出すこともあったようです。また普段家族が身につけていた物を形見{かたみ}代わりに持っていったことも多かったようです。それにしても絵を描く時間の余裕も無かったということは、防人の招集が慌{あわ}ただしかったことを物語っています。

葦垣{あしかき}の隈処{くまと})に立ちて吾妹子{わぎもこ}が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ。
(訳)
葦{あし}で編んだ垣根{かきね}の隅{すみ}の所に立って、妻が袖もぐっしょりと濡{ぬ}れるほどに泣いたことが思い出される

 夫婦の別れの辛さが実にリアルに描かれていて、こちらまで涙を誘うような歌です。涙を必死で隠そうと垣根の隅のところで泣いていた妻のいじらしさが、防人の心にも痛く響{ひび}いたに違いありません。

父母が頭{かしら}かき撫{な}で幸{さ}くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる。
(訳)
父と母が私の頭を撫でながら、「無事でおいで」と言った言葉がいつまでも忘れられない

 防人は、正丁{せいてい}、つまり21歳から60歳までの成年男子が選ばれましたので、この歌の作者も21歳を過ぎていたはずです。しかし、大人になった我が子をまるで「幼子を愛撫{あいぶ}するかのように頭をかき撫でた」というところに、両親の愛情を強く感じさせる歌です。

忘らむと野行き山行き我{われ}来れど、わが父母は忘れせぬかも。
(訳)
忘れようと思って、野を行き山を行きここまで来たけれども、父母のことはどうしても忘れられない

 東国から九州までの長い道程{みちのり}の中で、防人たちはいったい何を思っていたのでしょうか。きっとそれは、家族のこと。防人の「忘れようと思っても忘れられない」切ない気持ちが、伝わってきそうです。

わが母の袖持ち撫でてわが故{から}に泣きし心を忘らえぬかも。
(訳)
母親が、私の着物の袖を取って撫でながら、泣いていた気持ちが忘れられないなぁ

 この歌は、私の父方の出身地である上総{かずさ}の国山辺{やまべ}郡(今の千葉県山武郡)の防人・物部乎刀良{もののべのおとら}の作と伝えられているものです。親子との辛い別れの様子が、まるで目の前に見えてきそうな悲しい歌です。こうして、私の先祖も招集されていったのでしょうか。そう思うと、他人事とは思えない切ない気持ちに駆{か}られます。

防人に行くは誰{た}が背{せ}と問ふ人を見るが羨{とも}しさ。もの思{もひ}もせず。
(訳)
「防人に行くのは誰の夫なの」と、尋ねる人を見るのは羨{うらや}ましいことだ。人の気持ちも知らないで……

 防人は、成年男子の3〜4人に1人が選ばれました。「自分の夫が選ばれなかったのを幸いに、まるで他人ごとのように尋ねる人が何とも羨ましい」。そんな防人の妻の悲しみが、対照的に描かれており、心を強く締め付けられるような思いです。

 『万葉集』という言葉は誰もが知っていても、その中に眠り続けている「防人の歌」についてはあまりよく知られていません。しかし、今日もまたどこかの国で戦争が行われているのです。それだからこそ、「防人の歌」が私たちの心に痛く染{し}みてくるのです。いつかこの地球上に、戦争のない平和な日々が訪れるのでしょうか。その日が一日も早くやって来ることを願って止みません。


◆  親の反対で結ばれなかった恋ーー滝口入道と横笛ーー 「心に残る人生ドラマ30話」より

 空海{くうかい}が開山したという高野山{こうやさん}。その大円院{だいえんいん}の本堂前に"鴬{うぐいす}の井"と呼ばれる井戸があります。この井戸には、結ばれなかった若い男女の悲恋物語が古くから語り継がれています。

 時は平安時代。斎藤時頼{さいとうときより}という平重盛(たいらのしげもり:平清盛{きよもり}の長男)に仕える滝口{たきぐち}の武士がおりました。"滝口の武士"というのは、宮中を警護{けいご}する武士のことで、彼らの詰所{つめしょ}が清涼殿{せいりょうでん}東北の水の落ちる場所にあったことから名付けられた言葉です。
 時頼は、鎮守府{ちんじゅふ}将軍・藤原利仁{ふじわらのとしひと}の子孫で、父親は左衛門大夫{さえもんだゆう}・斎藤茂頼{しげより}という平家の武士でした。
 ある日、京都西八条にある平清盛{たいらのきよもり}の屋敷で、春鴬囀{しゅんのうでん}という雅楽{ががく}が催{もよお}されました。この時、時頼も招かれ雅楽を見学しました。
 "春鴬囀"というのは、唐{とう}の音楽に属する十二音律の曲で、音楽に合わせて4人の女性が舞{まい}を舞うのですが、その中の一人の女性に時頼は心を奪{うば}われてしまいました。
 女性の名前は、横笛{よこぶえ}といい、高倉{たかくら}天皇の皇后・建礼門院{けんれいもんいん}に雑仕{ぞうし}(雑役{ざつえき}の下級女官)として仕える身分の低い女性でした。
 やがて二人の間に恋が芽生え、将来を誓{ちか}い合う仲となりました。しかし、時頼の父・茂頼は、二人の身分の違いを理由に結婚を認めませんでした。
「彼女以外の女性との結婚は考えられない。かといって父親の意見に反対することも出来ない」
 時頼は悩みました。そして、ついに出家を決意して横笛の前から姿を消したのです。
 彼は、京都奥嵯峨{おくさが}にある往生院{おうじょういん}で剃髪{ていはつ}し、滝口入道{たきぐちにゅうどう}と名を改めて出家しました。このことを知った横笛は、往生院を訪ねます。ふとどこからか聞き慣{な}れた念仏読経{ねんぶつどきょう}の声が聞こえます。
「時頼様に違いない!」
 そう思った彼女は、寺の者に会いたい主旨{しゅし}を伝えましたが、
「そのような者は、この寺にはいない」
と、追い返されてしまいました。
 一切の俗世{ぞくせ}を絶{た}つことを決意した彼は、修業の妨げになるので彼女との面会を拒絶{きょぜつ}したのでした。
 このことを知った横笛は、泣きながら門前にあった石に自ら指の血で歌を書いたといいます。これが今でも"歌石"として往生院に残っています。

 悲嘆{ひたん}に暮れた横笛は、奈良の法華寺{ほっけじ}にいる叔母に頼んで自分もまた出家し、尼となりました。
 その後、入道は京都を出て、和歌山県にある高野山に向かいます。そして、高野聖{ひじり}となって大円院{だいえんいん}で修業に専念{せんねん}しました。そのことを風の便りに聞いた横笛は、一目だけでも入道に会いたいと思い、高野山を訪ねました。しかし、高野山は女人禁制{にょにんきんせい}であり、当時女性の入山は固く禁じられておりました。
 横笛は、高野山の登山口である天野に草庵{そうあん}を結び、入道との再会を夢見て待ち続けました。しかし、2年後に病気にかかり、あえなく亡くなってしまったのです。臨終{りんじゅう}の際、彼女は一つの歌を残しました。
やよや君死すれば登る高野山
  恋も菩提{ぼだい}の種とこそなれ

 それからしばらく経ったある日のことでした。入道のいる大円院の井戸の所に鴬{うぐいす}がやってきては、しきりに鳴くようになりました。
 そんなある晩、彼は不思議な夢を見ました。梅の木の上で鳴く鴬は、実は横笛の化身であり、やがて鳴き疲れて井戸に落ちて死んでしまう……そんな不思議な夢でした。
 夢から醒{さ}めた入道は、戸を開けて井戸の辺りまで行ってみました。すると……本当に井戸の中で一羽の鴬が死んでいたのです。彼は、その鴬が横笛の化身だと確信し、やさしく掌{てのひら}に乗せてあげました。
 ようやく好きな人に巡{めぐ}り会えた横笛。二人の恋は、このような悲しい結末で結ばれたのでした。

 その後、入道は彼女の菩提{ぼだい}を弔{とむら}うために阿弥陀如来像{あみだにょらいぞう}を彫り続けました。如来像が出来上がった時、彼はその胎内{たいない}に鴬の亡骸{なきがら}を納めました。そして、それを大円院のご本尊{ほんぞん}とし、生涯亡き横笛の冥福{めいふく}を祈り続けたのでした。
 現在、大円院の本尊となっている"鶯{うぐいす}の弥陀{みだ}"と呼ばれるものが、それであると伝えられています。
 また法華寺には、横笛が自ら作ったとされる紙製の横笛像があります。高さ30センチ余りの可愛らしい少女像は、どこか寂しげにうつむき、じっと悲しみに耐{た}えているようにも見えます。


◆  夫の帰りを待っていた妻の話ーー小泉八雲の怪談ーー「心に残る人生ドラマ30話」より

  昔、京都に一人の侍{さむらい}がおりました。主家が没落{ぼつらく}したため、生活が苦しかったので、新しい仕官のチャンスを求めていました。結局、彼が選んだ道は、長年連れ添{そ}った妻と離縁{りえん}することでした。家柄の良い別の女性と再婚して、新しい仕官のチャンスを得たかったのです。
 しかし、彼の第二の結婚は、決して幸福なものではありませんでした。新しい妻の性格が、冷酷{れいこく}でわがままだったからです。やがて彼は、折に触れて京都の頃を懐{なつ}かしく思い出すようになっていました。夜毎の夢の中には、別れた妻が出てきました。貧しい生活の中で、彼女が日銭を稼{かせ}ぐために機{はた}を織っている姿。また自分が置き去りにしてきた荒れ果てた小部屋に、一人座って破れた袖で涙を隠{かく}している姿をよく夢に見ました。自分が第二の妻よりもずっと彼女を愛していることに気づくのに時間はかかりませんでした。
 やがて彼は、京都に帰れるようになったらすぐに彼女を探し出し、彼女の許しを乞{こ}い、罪滅ぼしに出来る限りのことをしてやろうと決心したのです。
 そして、歳月は過ぎていきました。
 ついに仕官の任期も終わり、侍は自由の身となりました。
「さぁ、彼女の元へ戻るのだ」
 彼は子供が無いことを理由に、第二の妻を親元へ帰すと京都へと急ぎました。
 以前、二人が住んでいた町に着いたときには、すでに夜も更{ふ}けていました。月明かりが皓皓{こうこう}と冴{さ}え、あらゆるものを照らしていました。家を見つけることに困難はありませんでした。家は、見るからに荒れ果てていました。雨戸を叩きましたが、応ずる者はありませんでした。
 家の戸を押し開けて入ってみましたが、辺り一面荒れ放題で人が住む気配はありません。それでも侍は、いつも妻が使っていた一番奥の部屋を覗{のぞ}いて見ることにしました。襖{ふすま}に近づくと、中から明かりが漏{も}れているのでびっくりしました。
 思い切って襖を開けると、侍は喜びの声を上げました。なぜなら、彼女がそこに座って、行燈{あんどん}の陰で縫物{ぬいもの}をしていたからです。
 やがて目と目が合うと、彼女は嬉{うれ}しそうに微笑{ほほえ}み、
「いつお帰りになられまして?」
と、優しい声で尋{たず}ねました。
 彼は、彼女の横に座って事の仔細{しさい}を語り始めました。どんなに自分のわがままを後悔{こうかい}したか、彼女がいなくてどんなに惨{みじ}めであったか、どんなに彼女のことを愛していたか………。
 すると、話を聞いていた彼女は、
「そんなに自分を責めるのは止めて下さい」
と、哀願{あいがん}しました。彼女は、別れた理由が貧乏の故であることを知っていたからです。
 それから二人は、夜の更けるまで語り合いました。空が白むまで過去や現在やそしてこれからの人生を語り合ったのです。やがて、いつとはなく侍は眠り込んでしまいました。
 目を覚ますと、陽日が雨戸のすき間から差し込んでいました。そして、驚きました。なぜなら、彼は朽{く}ち果てた床板の上にじかに横たわっていたからです。
「これは、夢であろうか?」
 いや、夢ではありませんでした。侍の横には、彼女も横たわっていたからです。
 彼は、眠っている彼女に顔をそっと近づけてみました。そして、驚きの声を上げました。なぜなら、彼女には……顔が無かった……からです。骨と長くもつれた黒髪のほか、ほとんど何も残っていない白骨が一つ横たわっていました。 身を震わせながら、陽の中に立ちつくしていると、言い知れぬ恐怖{きょうふ}が襲{おそ}ってきました。やがて、落ち着きを取り戻すと、家の近くの者に尋{たず}ねてみることにしました。
 「あの家には、どなたもいらっしゃいません」
 尋ねられた者が、答えました。
「元は、あるお侍の奥様のものでした。そのお侍は、奥様と離縁され別の女性と再婚しました。それで奥様は非常に苦しまれて病気となり、その年の秋に亡くなられたのです」

 この話は、1900年(明治33年)に出版された小泉八雲{こいずみやくも}著『影{かげ}』という本の中に収められている怪談話(題名『和解{わかい}』)です。

 小泉八雲(本名:ラフカディオ・ハーン)は、1850年(嘉永3年)、ギリシャのレフカス島に生まれました。父親のチャールズ・ブッシュ・ハーンはアイルランド人で、母親のローザはギリシャ人、一説にはアラブ人との混血であったらしいと伝えられています。小泉八雲自身、家族や友人に対して、
「自分は半分東洋の血が流れているから、日本の文化や伝統に対しても肌でこれを感じ取ることが出来る」
と、述べております。
 両親は、父親がレフカス島に軍医として駐屯{ちゅうとん}時代、激しい恋に落ちて結婚しましたが、息子が4歳の時に離婚。母親は息子を一人残してギリシャに戻ってしまいました。やがて、父親のチャールズもまもなく再婚して、新婦とともにインドへと旅立っていきました。
 両親に見捨てられた少年は、大叔母{おおおば}にあたるサリー・ブレネーンに引き取られることになります。その後、ハーンが13歳の時にカトリック系の寄宿学校に入学しますが、大叔母の家が破産{はさん}したため、3年後には学校を退学せざるを得なくなってしまいました。
 ハーンは19歳の年、わずかばかりの旅費を持ってアメリカに渡りました。ホテルのボーイ、電報配達、広告取り、煙突{えんとつ}掃除などの雑用で日銭を稼{かせ}ぎながらも図書館での勉強を欠かすことは無かったといいます。その努力が認められたのか、24歳のときに日刊新聞「シンシナティ」の正式記者として採用され、ジャーナリズムの世界へ身を置くこととなりました。

 日本へやって来たのは、1890年(明治23年)4月。39歳の時に「ハーパーズ・マンスリー」誌の特派員として横浜に降り立ちました。わずか2カ月あまりの滞在予定でしたが、日本到着後にハーパー社を退職したため、友人のコネを頼って島根県立松江中学校の英語教師として赴任{ふにん}することとなります。
 そこで出会ったのが小泉セツという日本女性であり、二人は翌年結婚し、後にハーンは日本国籍{こくせき}を取得して小泉八雲と改名することになりました。
 八雲は、幼い頃に両親に捨てられて寂しい子供時代を過ごしたせいか、弱者や小さき者に対する同情心と異常に繊細{せんさい}な神経を持ち合わせていたようです。幼い頃に寝床で見たという幽霊話を信じ、日本の民話や昔話に出てくる怪談話にも並々ならぬ興味と関心を持ちました。そして、これらの話を聞いてまとめたものが、1900年(明治33年)に出版した『影』であり、1904年(明治37年)に出版した『怪談{かいだん}』という本です。
 『怪談』には、耳なし芳一{ほういち}、ろくろ首、雪女、むじな……など、我々日本人にも馴染{なじ}みの深い話がまとめられています。

 私が八雲の作品の中で最も大好きなのが、ここに紹介した『和解』です。
 実は、この『和解』には、2つの重要な意味が込められています。
 1つは、侍の妻が夫の帰りを信じ続けたという内容です。たとえ肉体は滅{ほろ}びても魂だけはその場所に留{とど}まり、帰りを待ちわびていた。浜の真砂ほどある恋愛の中で、果たして愛する相手を信じ続ける人は一体どれほどいるというのでしょうか。
 そしてもう一つは、失ってみて初めて気づく妻の愛情です。その時は感じなくても、人の優しさや思いやりの心は、後になってから宝石のように輝いてくるものなのです。
 歌手のさだまさしさんの曲の中で私が一番好きな歌、『おむすびクリスマス』という歌。

君はもう忘れてしまったかしら二人だけのクリスマスイブ
ケーキの代わりに君がこさえたお結びの塩が胸にしみた
お結びクリスマス忘れない笑いながら泣いていた君を
お結びクリスマス本当はとても幸せだったと後で気づいた

 お金が無くてケーキが買えず、おむすびを作って二人で祝ったクリスマス。月日が経ち、二人は別れてしまったけれども、本当はあの頃がとても幸せだったと、後になって気づいた……という内容の歌です。

 失ってしまってから、失ったものの大切さに初めて気づく。人はお金や名誉{めいよ}、地位、財産といった目に見える物は大切にする。だが、本当に大事な物は目に見えないものの中にある。そのことになかなか気づかない。目に見えないもの、それは、愛情、優しさ、思いやり、親切、夢、そして希望……。

 サン・テグジュペリ著『星の王子様』の中にこんな話があります。
 地球にやって来て何千ものバラが咲いているのを見て、星の王子様はショックを受けました。なぜなら、美しい花は自分の生まれ故郷に咲いている一本のバラだけだと思っていたからです。そこに賢{かしこ}いキツネが現れてこう言いました。
「大事なことは、他のものと比べることではなくて、たった一つのものを愛し大切にすることなんだよ」。

 幸福とは、本来相対的なものではなくて絶対的なものなのである。子供時代は、なぜそんなに楽しかったのだろう。それはきっとかけがえのない一つの大切なもの……めいぐるみ、人形、おもちゃ、ペット等……を愛せたから。

 あなたは、今一番大切なものをお持ちですか。そして、それを大事にしていますか。


◆  心理カウンセリングについて

 現在、日本におけるうつ病患者は100万人を超えた、という報告があります。しかも4人に1人は「治療が2年以上長引いているケース」です。今のところ、心理療法を受けたくても健康保険が使えませんので、すべて自己負担となってしまいます。その意味でも、自分や家族の心のケアとして「心理カウンセラー」を目指す人が増えています。
 日本健康アカデミーでも2009年度より、「認定心理指導士」の講座をスタートいたしました。テキストでは、実践的に使えるカウンセリング手法を分かりやすく解説しています。
 自分の性格はストレスに強いか弱いか?  ゴッホの絵画に隠された秘密とは?  空を飛ぶ夢は、どんな願望の現れ? クレオパトラの入浴法?  うつ病、不眠症に良い食べ物とは? ……など。興味を引く情報満載の講座です。

 人は人生において、迷い、悩み、苦しむ存在です。どんなに幸せそうに見える人でも、辛い過去や人に言えない苦しみを担っているものだとも思います。
 心理カウンセリングの基本は、知識やテクニックではありません。カウンセラー自らも人生に悩み、苦しみ、もがきながら相談者と一緒になって少しでも豊かな実りある人生になるよう日々努力していくものなのです。
 間違っても「自分のカウンセリングは完成した」などと主張するカウンセラーになってはいけないものだと思います。カウンセリングに終わりはありません。昨日よりも今日、今日よりも明日と努力しながら、自らの人格を高める努力を惜しんではいけません。
 考えてみれば、優れた哲学者、宗教家、そして芸術家も自らの人生に悩み、苦しんだ中から、素晴らしい作品を生み出していったものだと思います。仏教の開祖であるブッダは、うつ病だったといわれています。シャカ族の王子として生まれ、何不自由のない生活を送りながらも、29歳の時、名誉も地位もそして家族をも捨てて出家しました。そして、長年の苦行の末に辿りついた境地は「涅槃寂静」というものでした。
 『バーリ経典』の中に、次のようなエピソードがあります。舎衛城に住むゴータミーという女性が、男の子を病気で亡くして悲しんでいました。ゴータミーは人々の心を救うというブッダのうわさを聞いて、やって来ました。「どうかこの子を生き返らせて下さい」。ブッダは、こう言いました。「この子を生き返らせたいのならば、町に行き、死人を出したことのない家からケシの実をもらって飲ませなさい」。さっそくゴータミーは町に行きましたが、死人を出さない家は一軒もありません。やがて彼女は、「死とは早いか遅いかの違いだけで、誰にも避けられないこと」を悟り、仏陀の熱心な弟子になったという話です。
 ここで大事なポイントが2つあります。1つは「ブッダは何も奇跡を行っていない」ということ。宗教家であれば、1つや2つ驚くような奇跡話が残っているものなのでしょうが、ブッダの場合は違います。彼の一生は、我々と同じ一人の人間として悩み苦しむ人生であったことが書物に記されています。
  もう一つは、ブッダはゴータミーの相談に対して、「悩みの解答を教えていない」ということです。心理学では、これを"非指示的カウンセリング"といいます。カウンセラー自らが解答を言ってしまうのが「人生相談」だとすると、相談者自らが暗中模索しながら「悩みの解答を発見していく過程」にこそカウンセリングの真髄があるように思います。
 長い人生において、心の病で悩み、苦しむことはけっして恥ずかしいことではありません。北面の武士でありながら、23歳で出家した西行法師もまたうつ病であったといわれています。「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」「願はくは花の下にて春死なん」といった詩が我々の心に響くのも、心の病でもがき苦しみながら辿り着いた境地であったからだと私は思います。
 人は悩み、苦しむからこそ成長できるものだと思います。カウンセラーの仕事は、暗いトンネルの中に一筋の光を当てることだと思います。しかし、その明かりに向かって自らの足で歩くのは相談者自身だということも忘れないで欲しいと思います。年間自殺者が3万人を超えているこの時代だからこそ、一人でも多くのカウンセラーが誕生することを願って止みません。
 

◆  千と千尋の神隠し

 引越しの途中で、両親と一緒に魔物が住む世界に入り込んでしまった千尋。やがて千尋の愛と勇気で、魔性の世界から生還するといったストーリー。一見子供向けのアニメにも思えるが、大変重いテーマを持っている作品と感じた。
  仏教では「六道輪廻」といって、6つの世界を人が生まれ変わると説いている。それに従えば、千尋は人間界から「畜生界」に迷い込んでしまったことになる。畜生界は、好きな物をたらふく食べ、欲しいものは手に入れる……といった本能と物欲が渦巻いた世界。しかし、よくよく「千と千尋」を観ていけば、畜生界とは「まさに人間界のこと」「この世の真実」を表している。また幼少期に千尋が川で溺れたのを助けた男の子・ハクとは、川に住む竜神の化身である。
  この作品は、たとえ現実の世の中がどんなに汚く穢れていようとも、恩を忘れず愛と勇気を持って生きれば、必ず道は開けると語っている。しかし、一緒に見ていた小学生のわが子にそのことを伝えるには、あまりにも大人びた難しいテーマであった。
  これからの長い人生、人から裏切られることも中傷を浴びせられ、傷つけられることも多いだろう。夢破れ、希望を見失うこともあるだろう。誘惑に負け、道を間違ってしまうこともあるだろう。父親としてわが子に伝えられるのは、成功する親のかっこいい姿ではなく、現実に苦しみもがき、挫折しながらも生き抜く親の後ろ姿をありのままに見せること。人生の厳しさを後ろ姿で伝えながら、それでも強くたくましく生き抜いていって欲しい。短い人生の中で、成功出来るのはほんの一握りの人間だけ。しかし、大切なことは「真の幸せとは物質的なものではなく、目に見えないものなんだ」。
  自らも物質的な誘惑に負けそうになり、豚に姿を変えられてしまうかもしれない。大切なものを見失ってしまうかもしれない。だからこそ、親の苦悩する生き様をありのままに子供たちに伝えていきたいと思う。親もまた魔性が住む人間界の中で、苦しみもがく人生の先輩でしかない。社会的な成功だけが全てではない。人生、全戦全勝なんてあり得ない、かっこよくなんて生きられない!!
 大切なことは、挫折して倒れても頑張って立ち上がること。その後姿をわが子に見せることが、親の大事な役目なのである。

 


◆  コルベ神父の奇跡

 
 マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は、1894年、ポーランドで生まれました。コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会し、その後、仲間とともに「無原罪の聖母の騎士信心会」を設立。「無原罪の聖母の騎士」という小冊子を発行してメディアによる宣教に力を入れました。1930年(昭和5年)には来日し、日本語版の「無原罪の聖母の騎士」誌の出版を開始。翌年には聖母の騎士修道院を設立しました。
 1936年(昭和11年)故国ポーランドへ戻りましたが、1941年5月、発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙がナチに対して批判的なものであったなどの理由から、ナチスに捕らえられ、その後、アウシュビッツ強制収容所に送られました。
 事件は、1941年7月末に起こります。収容所内に脱走者が出たことで、規則により「無作為に選ばれた10人が餓死刑に処せられる」ことになりました。10人が選ばれたその時、フランツィシェク・ガヨウィニチェクというポーランド人が「私には愛する妻と子供たちがいる。死にたくない!」と泣き叫びだしました。この声を聞いた時、側にいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります」と申し出ました。責任者であった将校はこの申し出を許可し、彼らは地下牢の餓死室に押し込められました。
 そして2週間後の8月14日、「死の地下室」の重い扉が開かれました。6人はすでにこと切れていましたが、コルベ神父を含め4人はまだ生きていました。この4人に対しては、フェノールが注射され殺害されました。
 奇跡というのは「滅多に起こらないが、起こることもある」ことをいいます。まったく起こらないことは「絵空事」です。死の恐怖にさらされている収容所の中で、自らの命を差し出したコルベ神父の勇気ある行動は、まさに「奇跡」といってもよいのではないでしょうか。一命を取り留めたガヨウィニチェクは、後年、次のように述べています。「目で感謝を送るだけだった。見知らぬ人が、私のために命を捧げる。現実だろうか……と、自問するだけだった」
 彼が心の支えとしたキリスト教とは、一体どのようなものでしょうか。イエス・キリストが布教する以前には、ユダヤ教がありました。唯一神・ヤーヴェ(エホバ)は、ユダヤ民族がエジプトで囚われの身にある時、モーゼを通じて「人を殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」といった十の戒めを民族に与えました。そして、この十戒を守るならば、ヤーヴェは「神の国を実現してやろう」と約束しました。
 ある日、イエス・キリストは、村人たちが集まって1人の女を石で打とうとしている場面に出くわします。「この女は、姦淫していたところを捕まえられた。モーゼは、石で打ち殺せといっているではないか」。そう言う村人に対して、イエスは言いました。「あなた方の中で、罪の無い者がこの女を打ちなさい」。村人たちは、顔を見合わせました。(罪のない人間など、この世にいるのだろうか……)。やがて一人去り、二人去り、最後にイエスと女、二人だけになりました……。
 人は誰でも、罪深きもの。大切なことは、それを反省し二度と過ちを犯さないこと……。イエスは、それを伝えたかったのではないかと思います。
 親鸞上人は、9歳の時に比叡山に入り、20年間修行を続けました。しかし、「妻帯したい、肉食したい」といった煩悩を取り去ることが出来ずに悩みました。彼が最後に辿り着いたのは、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という境地でした。ここでいう悪人とは「罪を犯した人」という意味ではなく、「罪深い存在であることを自覚した人」という意味です。
 果たして生きている間に、罪を犯さない人などいるのでしょうか。魚を食べ、肉を食べていることだけでも「間接的に殺生をしている」とは、言えないでしょうか。人は罪深いもの。だからこそ「もっと謙虚に生きよ」と、イエス・キリストも親鸞も語っているように思えてなりません。


◆  「赤い靴」秘話

 誰もが知っている童謡「赤い靴」。当時は、野口雨情の創作と思われていた「赤い靴」の女の子にモデルがいた……それは、昭和48年のこと。北海道新聞の夕刊に「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」と掲載された投稿記事。差出人は、岡そのさんという人からでした。
 そこで、当時北海道テレビ記者だった菊地寛さんは、5年あまりの歳月をかけて事実を確かめるために各地を歩きました。その結果、次のようなことがわかったのです。
 女の子の名前は、「岩崎きみ」。明治35年7月15日、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水区宮加三)で生まれました。その後、1歳の時に母親である「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。そこで母親に「鈴木志郎」という男性との再婚話が持ち上がり、彼女は夫と開拓農場に入植することになります。入植の際、母親のかよはわずか3歳の娘をアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出しました。
 その後、鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。同じ頃、雨情は長女を生後わずか7日で亡くしています。夭折した長女を「生まれてすぐにこわれてきえた……」と童謡「シャボン玉」に詠ったといわれていますから、世間話のつれづれに聞いたきみちゃんの話が「赤い靴」誕生のきっかけとなったのかもしれせん。後年、赤い靴の歌を聞いた母親のかよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子……」とよく歌っていたというエピソードが残っています
 母親のかよは、死ぬまで「きみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに暮らしている」と信じていたようです。しかし、事実は違いました。
 ヒュエット夫妻が任務を終え、アメリカに帰国しようとした時、不幸にもきみちゃんは結核に冒されてしまいました。身体の衰弱がひどく長旅が出来ないため、東京のメソジスト系教会の孤児院に預けられたそうです。その孤児院は、明治10年から大正12年まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院だそうです。
 3歳で実母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、孤児院の古い木造建物の2階の片隅で病魔と闘っていました。しかし、その甲斐もなく、明治44年9月15日の夜のこと、わずか9歳の短い生涯を閉じたのでした。
  赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、また今の幸せのありがたさに感謝したいと思います。 

◆  映画『おくりびと』

 2008年9月に一般公開され、第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画『おくりびと』。
 元来、我々日本人は、死者との関わりを大切にしてきた民族です。例えば、お盆の日には迎え火を焚いてご先祖様をお迎えします。しかし、核家族化と都市化の波は、このような風習を風化してしまい、死者との関わりも薄らいでしまいました。映画『おくりびと』の登場によって、改めて死とは何か、人間の尊厳とは何かについて、考えさせられました。
 映画『おくりびと』は、どのシーンを取ってみても深い意味が込められており、無駄な遊びがないパーフェクトな作品に感動しました。大切な人を亡くされた方はもちろんのこと、親子のわだかまりを抱えていらっしゃる方、リストラされて夫婦の仲がギクシャクされている方にもぜひ観てほしい作品の一つです。
 特に最後のシーンは素晴らしく、広末涼子演じる妻が「夫は納棺師なんです」と言った一瞬に夫婦のわだかまりが溶けてゆき、主人公の父親の掌から小さな石ころが出てきた瞬間、父と子のわだかまりがゆっくりと溶けてゆくのを強く感じました。

P.S
 NHKのテレビ番組で、次のような話を聞きました。子供の頃に両親が離婚して、母親と離れ離れになったある男性。これまで母親の死を受け入れられなかったが、遺品を整理していたときに自分の臍の緒が大切にしまってあったのを発見して、母親とのわだかまりが次第に溶けていったのを感じたという。そんな矢先に映画『おくりびと』を観て、完全に母親を受け入れられるようになったとのことでした。

 臍の緒に関しては、私にも思い出があります。私の母は、一昨年にC型肝炎から発症したと思われる食道静脈瘤破裂で急死しました。遺品を整理していたときに、やはり私の臍の緒が出てきました。実印と預金通帳がしまってある箱の中に一緒に入っていました。臍の緒というのは、決して綺麗なものではありません。たとえ自分の臍の緒でも、私だったら実印や預金通帳といった大切なものをしまう箱の中に入れないでしょう。しかし、母親は大切なものの一つとして箱の中にしまってありました。それを見た瞬間、胸に熱いものがこみ上げてきてしまいました。葬儀がなかったら、そんなことも気づかずに過ごしていたことでしょう。そのときになって、改めて母親の愛の深さを感じました。 


◆  仏教の教え

幸せと不幸
 ある家に一人の美女が訪ねてきました。「私は吉祥天。あなたに福徳を授けてあげるわ」。家の主は、どうぞ、どうぞと彼女を家に招き入れました。ところがもう一人、彼女と一緒に家の中に入ろうとする女性がいます。こちらの方は醜女で、見るからに貧乏神。「お前は誰だ!!」と、家の主は叫びました。「私は黒闇天(こくあんてん)。私の行くところ、かならず災難が起こる貧乏神よ」。「貧乏神はいらん。とっとと消え失せろ!!」主は、黒闇天を追い払いました。その時、黒闇天はこう言いました。「さっき入って行った吉祥天は私の姉。私たち姉妹は、いつも一緒に行動しているの。私を追い出せば、姉さんも出て行くわ」。こうして吉祥天と黒闇天の二人は、肩を並べて去っていったということです。
 この話は『涅槃経』に出てくる逸話ですが、意味するところは「人生、幸せと不幸はいつも背中合わせになっている」ということ。「災い転じて福となす」という諺があるように、黒闇天が来ていれば、そこにはかならず吉祥天もきているのだ。いつまでも続く不幸は無く、かならずや運勢は好転するのである。

遅すぎることは無い、焦ることも無い

 明治時代の頃のお話です。80歳になる老僧が、英会話の勉強を始めました。「いくらなんでも遅すぎますよ」と、弟子たちは言った。しかし、老僧は、次のように言いました。「遅すぎることは、わしだって知っておる。しかし、英単語の一つや二つ覚えておれば、今度生まれてきたときに楽が出来ると思うてな」
 徳川家の家臣であった鈴木正三は、42歳で出家して禅僧となりました。名前からもわかるように、正三は出家してからも俗名のまま通し、権威に安住した当時の仏教界を批判しました。そして、出家しなくても「それぞれ自分の仕事に精進することが、そのまま悟りである」とする在家仏教を主張しました。
 彼の言葉に「一生に成仏せんと思ふべからず。修行は何度も生まれ変わりながら行なうべし」というのがあります。仏教の本質は、魂は永遠であるということ。従って「この世の恥はかき捨て」という言葉は通用しません。今生の行いは来世につながるものであることを肝に銘じて、精進すべしということです。

こだわらない心

 一人の僧が川の水で弁当箱を洗っていました。そこに子供がやってきて「その水は汚いから、あっちの川で洗った方がいいよ」と言いました。すると僧は「仏教では不垢不浄(ふくふじょう)といって、きれいも汚いもないと教えている。こだわらない、こだわらない」と言い返しました。「それならなぜ、弁当箱を洗っているの? 洗わなくてもいいのではないか」子供は、僧の矛盾を突いて言いました。
 僧は比叡山に戻ると、この少年のことを師匠である良源に話します。良源は早速、この子の母親に掛け合い、弟子として貰い受けたということです。若干10歳で比叡山に登った少年は、後に源信と名を改めて立派な僧になりました。
 不垢不浄という言葉は、『般若心経』の中に登場します。『般若心経』というと色即是空、空即是色という言葉の方が有名ですが、ここでいう"空"とは「こだわらない気持ち」でもあります。永遠に続く物質的幸せはありません。名誉も地位も財産もけっして永遠ではなく、また死後の世界に持っていけるものではありません。
 とかくこの世の幸せを物質的な価値観のみで推し量ろうと致しますが、シェークスピアも福沢(諭吉)先生も「人生は芝居である。王様を演じる人もいれば、乞食を演じる人もいる」とおっしゃっています。大根がニンジンになれないように、ニンジンは大根になれません。フーテンの寅さんは二枚目を演じることは出来ませんが、二枚目俳優はフーテンの寅さんを演じることが出来ないのです。金子みすずの詩のように「みんな違って みんないい」。自分に与えられた役を最期まで心を込めて演じ切ること、それが人生だと思います。例え乞食の役を与えられても嘆くことはありません。あの世に帰れば、王様も乞食もいないことに気づきますから……。
(備考)『阿弥陀経』の中に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という言葉があります。極楽浄土には七宝の池があり、いろいろな色の蓮華の花が咲いている。青い色の蓮は青く光り、赤色の蓮は赤く光っている。人それぞれに個性というものがあり、自分の個性に応じて輝きを放つのが人生だと思うのです。

ガンジス河の塩
 ある日、シャカは弟子たちに質問しました。「同じ悪行を犯したのに、ある者は地獄に落ちたが、ある者は地獄に落ちずにいる。この違いは、何なのか?」。弟子たちが分からずに首をかしげていると、シャカは一握りの塩を取り出して見せた。「この塩を茶碗の水の中に入れたらどうか?」。一人の弟子が答えた。「とても塩辛い水になります」。「では、この塩をガンジス河に投げ入れたらどうか?」。すると弟子が答えた。「ほとんど変わりません」
 そのやり取りを傍らで聞いていた一人の弟子が、「わかりました」と答えた。「悪行を犯しても、その悪行以上に善行を積み重ねれば、悪行もガンジス河の塩のように薄まるということでしょうか」
 人は、長い人生の中で誤ちや失敗を犯します。たった一度の過ち、それを嘆き、悔やむこともありましょう。大切なことは、犯してしまった罪を悔やむことよりも、それ以上に善徳を積むことに専念すること。少なくともシャカは、そうおっしゃっています。
(備考)「一握りの塩」の例え話です。同じことを例えるにも、勝海舟は『氷川清話』の中で「海に小便をしたって、海は小便にならねぇ」と書いていますが、こちらはちょっと品がありません。

鹿の靴
 ある時、シャカは弟子たちに質問しました。「世の中の道は、石や木切れが落ちていて歩くのに危険である。どうすればいいか」。すると一人の弟子が答えました。「人の歩く道を鹿の皮で覆うとよいと思います」。するとシャカは、こう言われました。「世の中の道をすべて鹿の皮で覆うのは、不可能に近い。それよりも人の足を鹿の皮で覆った方がいい」
 考えてみれば、我々が生きているこの世は、危険がいっぱいあって生き難い。だから世の中をもっと住み良いところにしなければいけないと考える。しかし、理想の社会の建設は容易ではない。すべての道に鹿の皮を敷くように困難である。それよりは、自分の足に鹿の靴を履かせてしまった方が早い。
 我々は、他人から迷惑を受けた時、他人を変えよう、世の中を変えようと思うが、なかなか自分の思う通りにはうまくいかない。ストレスが溜まる一方である。それよりも自分の方が靴を履いて(考え方を変えて)、他人を許し、時には我慢して生きていく方がうまくいくことも多い。

彼岸花の蜜
 秋のお彼岸の頃に咲くので、曼珠沙華のことを彼岸花ともいいます。この花は、花を咲かせるけれども実は成りません。実が成らないということは、種子で増えるものではなく地下茎によって繁殖する植物なのです。従って、花に蜜をつけて、受粉のためにわざわざ昆虫をおびき寄せる必要はないのです。では、なぜ花に蜜があるのでしょうか?
 チャールズ・ダーウィンの進化論的に言えば、過去には種子によって繁殖していた時代があるので、蜜はその名残り、つまり"痕跡器官"だと解釈することが出来ます。しかし、それは科学的であっても仏教的ではありません。仏教的には、自分たちのためには直接役に立たないことであっても、蜜がアゲハチョウにとって役立つものならば、それはそれで存在意義があるという解釈です。
 因みに彼岸花には、リコリンというアルカロイドの毒性物質を含みます。従って誤食した場合は、吐き気や下痢、時には中枢神経麻痺を起こして死に至ります。墓地に多く見られる理由は、土葬にした死体を動物によって掘り荒されるのを防ぐため……ともいわれています。
 自分のためではなく、他者のために花を咲かせる彼岸花。まさにお彼岸の日に相応しい花といえるのでは、ないでしょうか。

真珠の涙
 白隠禅師の弟子の一人におさつ婆さんという人がいます。ある時、おさつ婆さんの孫娘が亡くなりました。その葬儀の際、彼女は棺桶の前で泣きに泣いていました。そこである人がこう言いました。「あんたは、白隠禅師から印可を受けた人ではないか。そんなに泣いていては、禅の悟りも無意味になる」……と。すると、おさつ婆さんは言いました。「やかましい! わしが流しているのは真珠の涙だ」
 何よりもっとも悲しいのは、親より先に子や孫が先立つことです。私もカウンセラーとして多くの方に出会いましたが、自分の死よりもわが子の死ほど辛いものはないと思っています。親より先に死んだ子供は、賽の河原で鬼にいじめられています。それは、自分の死で親を嘆かせたから……。だから、親が嘆けば嘆くほど子供の罪は重くなり、鬼の責め苦を受けると仏教では教えています。
 西条八十は、次女の彗子をわずか3歳の時に亡くしました。深い悲しみの中で、彼は次のように悟りました。
「あるところに、愛児の死を悲しみ続けた母親がいた。ある日、彼女は夢を見た。死後の世界で亡くなった子供たちが、それぞれに燭台を持ち、天帝の回りで歌を歌っている。ふと彼女は、その中にいる亡児の姿を見た。亡児の燭台だけは灯火が消えていて、いたく悲しげであった。母親は聞いてみた。すると亡児は『お母様があまりにお嘆きになるので、その涙で私の灯火は消えてしまうのです』……こんな話が、外人のある詩人の作にあるそうな。私もこれからは、愛児の灯火を消すような涙を流すのは止めることにしよう」
 仏教では、死後の百か日を「卒哭忌(そっこくき)」といいます。百日経った時、これ以上慟哭するのは卒業しよう……という意味です。では、仏教には救いは無いのか……というと、そうではありません。仏教では、死後の世界を否定はしていません。死後の世界があるのならば、死ねば再びわが子に出会えるという希望も同時に存在しているのです。

番外編(火の玉の思い出)
 以前、ある物理学者が人工的に作った火の玉をテレビで公開し、話題となったことがありました。火の玉は「自然界が引き起こすプラズマ現象の一つ」であると学者は言います。しかし、私は人工的な火の玉と実際の人魂とは、やはり「似て非なるもの」だと考えます。
 それは、私が中学3年生の10月末の夜のことでした。その日は、裏の家でお葬式があった日でした。時間は午後8時50分くらい。当時、私の勉強部屋は家の2階にあり、受験勉強で疲れた私は、一休みしようと思い、部屋の窓を開けて深呼吸しました。すると……目の前に飛び込んできたのは火の玉。自宅の1階の屋根の上、3メートルぐらいのところを裏の家の方角に向かって飛んでいました。火の玉といっても、物理学者が作り出したものや時代劇で見るものとは、まったく似て非なるものでした。大きさは、バレーボールぐらい。まるでバレーボールにガソリンを撒いて、それに火をつけたような感じです。飛び方も直線ではなく、ジェットコースターのような軌跡を描きました。しかも登るときはゆっくりで、下るときは勢いがついてスピードがあり、ハレー彗星のように火の尾を引きます。そんな上り下りを5回ほど繰り返すと、火の玉は突然目の前から消えました。
  目撃した瞬間は唖然呆然状態でしたが、パッと消えた瞬間、ソゾクゾクッと背中に寒気が走ったのを覚えています。私は驚いて、2階の階段を駆け下りて1階に行きました。すると母親がやはり驚いた顔で、トイレから出てくるではありませんか。母親は、トイレの小窓から火の玉を見た、と言いました。目撃者は2人だけかと思っていましたが、翌日のこと。仕事帰りの男性が同じ時間に我が家の前を通り過ぎた際、家の屋根の上を「火の玉が通っていった」と母親に言って帰ったとのことでした。あの情景は、今でもはっきりと脳裏に焼きついています。ただ残念なのは、目撃したのは一度きりで、死ぬ前にもう一度見てみたいと思っています。


◆参考文献

ひろさちや著「仏教とっておきの話366」(新潮社)

  世の中に「人生の参考書」は存在しても、「人生の教科書」は存在しません。少なくとも私は、そう思います。キリスト教の教えはイエス・キリスト個人の人生の教科書であったとしても、私個人の人生の教科書にはなり得ません。仏教、その他の宗教や哲学書についても同様です。なぜならば、イエス・キリストと私は、生まれた時代も環境も、持って生まれた個性や才能だってまったく別なものだからです。ダイコンはダイコンでしかなく、ニンジンはニンジンでしかあり得ません。ダイコンをニンジンと同じように料理することは無理なのです。人生とは、自分に与えられた限られた環境の中で、試行錯誤しながら自分独りで歩んでいくものなのです。
 苦しい時、辛い時、誰かのアドバイスが励みとなり、生きる希望を与えてくれることがありましょう。しかし、それは参考書であって、けっして教科書にはなりません。自分の人生は、たった一つのものでしかないのです。
 北畠親房というと、南北朝時代の武将として有名ですが、宗玄(のちに覚空)という法名を持つ僧でもあったことはあまり知られていません。『神皇正統記』の中に「一宗に志ある人余宗をそしりいやしむ、大きなる誤りなり。人の機根も品々なれば教法も無尽なり」という文章があります。この意味は「一つの宗教に志を持っている人が、他の宗教をそしったり、軽蔑したりする。これは、大きな誤りである。人間の性格・能力が様々なのだから、宗教の教えも無限にあるのだ」
 カウンセラーが気をつけなくてはいけないは、自分の人生体験を絶対と信じ、他人にも「こう生きよ」とアドバイスすること。しかし、人それぞれに環境や立場が違いますので、アドバイスはあくまでもアドバイス、つまり参考書でしかなく、教科書の代わりにはなりません。自分の人生の教科書は、自分自身が一生の中で創り上げていくものなのです。従って、カウンセリングの手法も絶対というものは無く、その人に一番合ったカウンセリングが最高の手法なのです。
 ここで誤解しないで欲しいのは、宗教や哲学は必要ないと言っているのではありません。その人の人生の教科書にはなりませんが、少なくとも参考書として充分価値があるものなのです。「自分には仏教的な教えが向いている」あるいは「自分にはキリスト教の価値観が共感できる」……など、人それぞれに物の考えや価値観が異なりますので、まずは自分に合ったものを探して「人生の参考書」にされるとよいでしょう。人生に行き詰った時、悩んだ時にきっと良いヒントを与えてくれると思います。
 私にとって、「仏教とっておきの話」は大事な参考書の一つです。また私にとって仏教とは、宗教ではなく「人生の参考書」の一つです。



せんべいの話
 ある日、息子と娘が兄妹喧嘩をしていたので、私は割り箸を取り出して「いいかい、1本ずつなら簡単に折れてしまうけれど、2本合わさったら折れないよね。兄妹は2人で力を合わせていかないといけないんだよ」と二人に言った。これは、毛利元就の"三矢の訓"の受け売りである。
 ある日、娘が私に聞いてきた。「パパは、お兄ちゃんとわたし、どっちが好きなの?」。そこで私は、せんべいを1枚取り出して、それを半分に割った。「右のせんべいと左のせんべい、どっちが美味しいと思う?」。娘は不思議そうな顔をして「どっちも同じ!!」と答えた。「そうなんだよ。親にとって子供は、みんな同じなんだよ」。これは、『仏教とっておきの話』の受け売りであった……おしまい


◆  みんな違ってみんないい

わたしと小鳥とすずと
  (作:金子みすず)

わたしが 両手を ひろげても
お空は ちっとも とべないが
飛べる 小鳥は わたしのように
地面を はやくは走れない

わたしが からだを ゆすっても
きれいな 音は でないけど
あの鳴る すずは わたしのように
たくさんな うたは 知らないよ

すずと 小鳥と それから わたし
みんな ちがって みんないい


◆  一杯のかけそば

 人はなぜ、一人であるよりも結婚を望むのであろうか?……それは、一人でかけそばを食べるよりも「二人で分け合って食べた方が美味しいこと」を知っているから。やがて子供が一人出来れば、一杯のかけそばを「二人よりも三人で分け合って食べる方が美味しい」と思う。三人よりも四人、四人よりも五人と家族は増えてゆくが、その分、一人が口にするかけそばの量は減ってしまう。しかし、心のかけそばは人数が多いほど量が増えることを知っている。そのことを分からなければ、家族の大切さを知るすべもない。


◆  天国からの手紙

 人生で最も辛く悲しいこと。それは、愛するわが子の死ではないかと私は思います。アメリカにエレナ・デッセリッチちゃんという5歳の少女がいました。彼女が6歳の誕生日を間近に控えた2006年11月のこと。言葉がうまく話せなくなり、まっすぐに歩けなくなったエレナちゃんを、両親は病院へ連れて行きました。診察の結果は、びまん性グリオーマ、悪性の脳腫瘍でした。エレナちゃんには残念ながら回復の見込みはなく、余命4か月半と宣告されました。
 両親は、わずかな希望を持ちながらも「残された時間を、エレナと妹のグレイシーにとって特別な瞬間にしよう」と心に誓いました。病気が明らかになってすぐに訪れたクリスマス。この日も盛大にパーティーを開いて、家族の時間を大切に使いました。
 その後、病気は進行していきました。1ヶ月間の放射線治療の後、彼女の症状は急激に悪化し、話せなくなり、体も麻痺していきました。そして、診断から9か月後の2007年8月、エレナちゃんは6歳という短い生涯を閉じたのでした。


 エレナちゃんが亡くなってから数日後のことです。両親は、引き出しの中からエレナちゃんが書いた1通のメモを発見しました。やがて、数え切れないほどのメモが家のいたるところから出てきました。ポストイット、プリンター用紙、切れ端など、さまざまな紙に書かれたメモは、両親や妹のほか、祖母やおばさんの飼い犬にまで宛てたメッセージでした。その多くは、似顔絵と共に「パパもママも、グレイシーも大好き」とメッセージが書かれていました。
 今までに数百という多くのメモが、見つかったそうです。しかし、2年が過ぎた今でも新たに見つかる時があるという。父親のキースさんは、「メモはブリーフケースからも見つかったし、本の間や化粧台の引き出し、クリスマスグッズの箱にもあった」と話します。しかし、見つければ見つけるほど、隠されたメモが少なくなっていくため、家族は1通だけは目を通さず、大事にその"宝物"を保管しているそうです。
 2009年10月27日、エレナちゃんの闘病日記と一緒に彼女が残したメッセージを掲載した本「notes left behind」が米国で出版されました。本の収益金は、エレナちゃんを追悼して設立された慈善団体にそのまま寄付されるということです。
 懸命に病気と戦いながらも、両親と妹を気遣い残していった数多くの手紙。最後に彼女のご冥福を祈りたいと思います。


 

◆  一炊の夢(沈既済著『枕中記』より)

 中国・唐の時代の頃、呂翁という道士が邯鄲(河北省)の旅舎で休んでいると、廬生というみすぼらしい身なりの若者がやってきて、「あくせくと働きながら苦しまねばならぬ身の不平」を呂翁に話しました。
 やがて廬生は眠くなったので、呂翁から枕を借りて寝ました。陶器製の枕で、両端には孔が開いていました。眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生が入っていってみると、そこには立派な家がありました。その家で、廬生は清河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、トントン拍子に出世をしていきました
 ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(長官)に左遷。そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた廬生は、宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政を行い、賢相の誉れを高くしました。
 しかし、突然、彼は謀叛をたくらんでいるという無実の罪によって捕えられました。彼は、縛につきながら嘆息して妻子に言いました。
 「わしの山東の家には、わずかばかりだが良田があった。百姓をしておりさえすれば、それで寒さと餓えを防ぐことが出来たのに、何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。そのために、今はこんなことになってしまった。昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていた頃が思い出される。あの頃が懐かしいが、今はもうどうにもならない……」
 廬生は刀を取って自殺しようとしましたが、妻に押しとめられて、それも叶いませんでした。
 数年して、天子はそれが冤罪であったことを知り、廬生を呼び戻して中書令とし、燕国公に封じました。五人の子供もそれぞれ高官に上り、幸福な晩年を送りました。やがて、次第に老いて行き、廬生はついに死去しました……。

 あくびをして目を覚ますと、廬生は元の邯鄲の旅舎に寝ています。傍らには、呂翁が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱を蒸していましたが、その黄粱もまだ出来上っていません。すべては、元のままでした。
 「ああ、夢だったのか!」
 呂翁は、笑って言いました、
 「人生とは、みんなそんなものさ」
 廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝をして言いました。
 「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。これは、先生が私の欲を塞いで下さったものと思います。ありがとうございました」
 呂翁に懇ろにお辞儀をすると、廬生は邯鄲の道を去って行きました。

◆  一隅を照らす

 一隅を照らす、これ則ち国宝なり。
 この言葉は、最澄が著した『山家学生式』に書かれている言葉ですが、私が好きな言葉の一つです。逆に私が嫌いな言葉もあります。「成せば成る」「やれば出来る」という言葉は嫌いです。人は誰でも夢を持ち、希望を持って生きていこうとします。しかし、どんなに努力しても叶わない夢は沢山あるし、やっても無理なことは無理なのです。朝一番に知人から電話がありました。知り合いの人が夜中に電話をしてきて、「夢が破れて、生きることに疲れた。死にたい……」と洩らしている。どう対処したらいいのか、教えて欲しい。
 私はカウンセラーとして、数多くのうつ病や自殺願望の方々と接してきました。人生は、山あり谷ありです。人は誰でも、悩み苦しみ、もがきながら生きていかなくてはなりません。夢が破れた瞬間、自分の不甲斐無さに絶望し、死を選んでしまう人が後を絶ちません。それは……とっても残念なことです。自分は生きていても価値がない……本当にそうなのでしょうか?
 赤ちゃんは、泣いてミルクを欲しがるだけ? いいえ、そんなことはありません。仕事から疲れて帰ってきたお父さんが、わが子の微笑む姿を見ただけで「一日の疲れ」が嘘のように吹き飛んでしまう。夫婦喧嘩をした後のお母さんが、わが子の微笑む姿を見ただけで「この子の為にもう一度頑張ろう」と思い涙を拭う。赤ちゃんは、お父さんとお母さんの心の片隅をいつも照らし続けているのです。そんな貴方も、きっと子供の頃、ご両親の心の一隅を照らし続けていた存在に違いありません。
 逆に考えれば、ご両親、おじいちゃんおばあちゃん、兄弟姉妹、親戚のおじさんおばさん、近所の人、友人や知人、これらの人たちの温かな愛情が、貴方の心の一隅を照らしてくれたからこそ、今の自分があるということも忘れないで下さい。何はともあれ、その日のうちに電話の方にお会いしました。話を聞けば、ミュージシャンになる夢を断たれたことで自暴自棄になっていたとのことです。
 私の知人にも、若い頃、ミュージシャンになる夢を持っていた人がおります。結局、夢は叶いませんでしたが、今は仕事が休みの日に老人ホームなどに出かけては、バンド仲間とボランティアの演奏を続けています。音楽活動でお金を稼ぐことは出来ませんでしたが、きっと彼の演奏は老人ホームのお年寄りの心の中に一筋の光を与えていると思うのです。大きな夢は叶わなくとも、誰かの心の片隅を照らす人間になりたいと思います。
 考えてみれば、私が子供の頃に描いていた将来の夢は、今とはまったく別のものでした。しかし、どんなに努力しても挫折だらけの人生で、「河童の川流れ」のように逆境に流れ流され、ようやく辿り着いた岸辺がカウンセラーという職業だったのです。しかし、苦労をしたからこそ、挫折を味わったからこそ、同じ境遇の人々の苦しみや悲しみがよくわかります。人は、真っ暗闇の中では生きていくことは出来ません。例えトンネルの中にあったとしても、遠くの方に一筋の光が見えたなら、生きていくことが出来ます。ささやかな蝋燭のような小さな光であったとしても、人はそれに向かって歩むことが出来るのです。人々の心の片隅に小さな光を照らす、そんな人間になれたらいいなと思います。
径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照らす、これ則ち国宝なり(山家学生式)


3歳の頃、東金市家徳の生家にて。幼少期の私は、両親の心の一隅を照らす存在だったのか。

 2011年3月11日、東北地方で発生したM9.0の巨大地震は、多くの方の命を奪いました。地震発生から3日後の14日、津波で壊滅的な被害を受けた岩手県宮古市田老町で、倒壊した家屋の中から祖母と孫で3歳の男の子の遺体が発見されました。現地入りした記者が目にしたものは、祖母が孫をしっかりと抱きしめたまま、最後まで孫を守り抜こうとしていた姿でした。
 倒壊した家屋は、津波に押し流され、元の場所から数百メートル離れた場所で見つかりました。家族や親類が午前中からがれきの撤去を開始。2人が発見されたのは、午後2時を過ぎてからのこと。折り重なるように倒れており、祖母が孫を両手でしっかりと抱きかかえていました。その瞬間、20代の男児の母親はその場に崩れ落ち、家族や親類らと抱き合って号泣し続けたそうです。
 母親は「おばあちゃんは私が仕事の時、いつも息子の面倒を見てくれていた。2人が一緒に見つかって本当に良かった」と涙をぬぐい、「でもやっぱり死に顔は見られなかった。まだ生きていると信じている……自分がいるから」と声を詰まらせました。

 2013年3月3日。台風並みの低気圧の通過で、猛吹雪となった北海道。湧別町では、近くに住む岡田幹男さん(53)が、同町の倉庫前で、長女の小学3年夏音さん(9)を抱きかかえて倒れていたのが発見されました。
 岡田さんは、乗っているトラックが「雪で動けない」と親戚に電話し、再び電話があった後、連絡が途絶えたそうです。警察の調べでは、軽トラックが自宅から2キロ離れた道路脇の雪に突っ込んで止まっているのを発見。2人は、軽トラックから約300メートル離れた牧場の倉庫前まで歩き、そこで動けなくなったとみられています。
 岡田さんは、その後、搬送先の病院で死亡が確認されました。発見当時、2人の上半身は雪で埋まっていたそうですが、夏音ちゃんが窒息しないように小さい穴が掘られていたという。それを見た救急隊員は、岡田さんがどれほど必死で娘を守ろうとしていたのか、胸がつまる思いがしたそうです。10時間もの間、娘を抱きかかえて命を守ろうとした父親。夏音さんは岡田さんに抱えられたまま、消え入りそうな声で泣いていたところを無事救出されました。
夏音さんは、一昨年に母親を亡くし、父親の幹男さんと2人暮らしだったそうです。
わずか9歳で両親に先立たれた彼女の将来に、幸多きことを祈りたいと思います。


 今まで生きてきた中で、きっと貴方のことを懸命に守りぬいてきた人がいるはずです。その人のためにも、今度は貴方がその人に代わって誰かを守る生き方をして欲しいと思います。

◆  名作「夏の花」

 もし妻と死別したら、1年間だけ生き残ろう。悲しく美しい1冊の詩集を書き残すために……。
 原民喜(はら たみき)は、1905年、広島市に生まれました。皮肉にも「民喜」という名前は、「戦争に勝てば、民が喜ぶ」という意味から名付けられたそうです。少年の頃から文学に親しんだ彼は、慶応大学英文科を卒業後、永井貞恵という女性と結婚します。その後、千葉市に引っ越してからは、妻貞恵の献身的な支えもあり、創作活動が活発になります。
 幸せな結婚生活のはずでした。が……、1939年、貞恵は結核と糖尿病を併発します。生活が困窮する中、彼は旧制船橋中学校(現、千葉県立船橋高校)で英語講師として勤務し、また映画の脚本などを書いて妻の看病に励みました。
 1944年9月のこと、妻貞恵は33歳の若さで病死。その後、彼は故郷の広島に戻りますが、愛する妻を失った喪失感は彼を苦しみ続け、一周忌までは生き長らえて、追悼の詩集を完成させた後に亡き妻のもとに行こうと決意します。しかし、自殺決行の直前、彼の運命が変わりました。1945年8月6日の朝8時15分、広島の自宅で原爆投下に遭遇したのです。愛妻の墓前に夏の黄色い花を供えてから、2日後のことでした。この体験を後世に残さねばならない。人が生きることとは、一体何なのだろう? 
 そして、彼は原爆投下の惨状をメモした手帳を基に小説『夏の花』を完成させます。この作品は、翌年、第一回水上滝太郎賞を受賞することに……。
 現在、彼の詩碑(遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻)は、広島の平和記念公園内にあります。戦争からは、不幸しか生まれない……。原民喜の願いもむなしく、今日も世界のどこかで戦争が起こり、無益な殺生が繰り返されている。夏の花……咲いたのだろうか。


◆  親の言葉

 年を取るにつれ、子供の頃に聞いた両親の言葉が、次第に懐かしくまた重く心に響くことがあります。両親でなくても、学校の先生でも、あるいは親戚や近所のおじさんおばさんの言葉でも、思い出に残っている言葉があれば、忘れないうちにノートに書き留めておくことをお勧めします。

わたしの父の言葉
「生きるも偶然、死ぬも偶然」
 私が子供の頃に父親からよく聞かされたのは、戦争体験の話です。第2次世界大戦の時、父は陸軍戦車隊の兵士として満州に出兵しました。昭和20年8月15日の1週間前、突如ソ連が宣戦布告したため、父が所属する戦車部隊に出兵命令が下ったそうです。酒などは一切なかったので、別れの水盃をかわして出撃しました。しかし、途中で戦車が故障。修理をして出動しましたが、ソ満国境の川まで来ると今度は橋が崩落している。歩兵部隊は川を渡って進んでいったが、戦車隊は渡れない。そこで橋を修理していたが、そうこうしている間に戦争が終わっていた。戦車の故障と橋の崩落。偶然にも命は助かったが、生きるも死ぬも紙一重だという話を良くしていました。
 余談ですが、この頃、母親は群馬県桐生市に住んでいました。昭和20年8月、前橋、高崎が空襲を受け、次は桐生に爆弾?……そんな状況の中で終戦。私が今ここにいるのも、父と母が生存していたことに感謝しなくてはいけません。

「希望がなくては、人は生きられない」
 戦争は終わったものの、父親は捕虜としてシベリアに連行されました。待っていたのは、零下の地での森林の伐採労働。主食は黒パンとジャガイモのスープのみで、栄養失調のため65キロあった体重は32キロとなり、病棟に担ぎ込まれました。戦地で2度目の死を覚悟した父でしたが、病棟を取り仕切る日本人の兵士(医師)は、毎日死ぬか生きるかの日本兵を外に連れ出しては、日本の方角に向かって「おっかさーん、生きて帰ってくるぞー!!」と叫ばしたそうです。叫び声は、最後には涙声となり、「こんなことでくじけてはいけない。かならず生きて日本へ帰らればならない」。次第にそんな気持ちが高まり、いつのまにか体力も回復に向かっていたといいます。病は気からという言葉があるように……希望がなくては、人は生きられない存在なのです。

わたしの母の言葉
「朝夕の食事は、うまからずともほめて食うべし」
 今から思えば、私の母が語った言葉の多くは「有名人の格言」であったことです。例えば子供の頃、食事を残した私に言う言葉は上記の言葉でした。大きくなって、この言葉は伊達政宗が言った言葉であることが分かりましたが、「人生は旅であり、本当の故郷はあの世にある」といつも語っていた母親が、好きな言葉の一つだったと思われます。
「倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり。この世に客に来たと思へば何の苦もなし。朝夕の食事はうまからずともほめて食うべし。元来客の身なれば好き嫌いは申されまじ」(伊達政宗)

「もとより空に有明の月」
 この言葉も母親はよく使っていましたが、これは夢窓疎石の言葉です。人生、雨の日も風の日も、そして台風の日もありますが、雨雲の上にはかならずや太陽や月が存在します。苦しみにじっと耐え、我慢をしていれば、やがて雨雲は通り過ぎ、明るい光が煌々とさしてきます。一時的な苦しみや困難から逃れることばかりを考えず、歯を食いしばって困難に立ち向かうことも人生には必要なのです。
「雲晴れて後の光と思うなよ もとより空に有明の月」(夢窓疎石)

「人生は芝居のごとし」
 これは福沢先生の言葉ですが、似たような言葉をシェークスピアが言っていました。母親は「人生は旅であり、本当の故郷はあの世にある」といつも語っていましたし、また人生は芝居であり、今生は乞食でも来世は貴族に生まれ変わることもある。ふてくされずに自分に与えられた役を思う存分演じなさい、といつも語っていました。
 母親が、どのような経緯で輪廻転生を信じていたのかは分かりません。一つ思い当たることがあるとすれば、「親戚や知人の葬式を予知」していたことです。誰々が枕元に立ったので、近々葬式がある。パーマ屋に行ってくる。いつもそんな調子でしたが、それから2、3日して葬式の知らせが入ることがよくありました。
「人生は芝居のごとし、上手な俳優が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある」(福沢諭吉)

◆  三徳の教え

 私の会社は東京の飯田橋にありますが、近くにサントクというスーパーがあります。聞いた話では、創業者が僧侶とかで、仏教の教えである「三徳」から命名したとのことですが、詳しいことは知りません。
 仏教でいう「三徳」とは、"恩徳""断徳""智徳"を指します。

恩徳……人は誰でも、一人で生きてゆくことは出来ません。誰かに支えられ、また自分も家族を支えて生きています。お世話になった人の恩を忘れず、また人に恩を与えるような人になれ、という意味があります。これは、「一隅を照らす」という精神にも通ずるものです。

断徳……あれもしたい、これもしたい、人の欲望は留まることを知りません。しかし、仮に名誉や地位、財産が手に入ったとしても、それで本当に幸せになれるのでしょうか?
もし物質的なもののみで幸せが得られるのであるならば、マリリン・モンローやマイケル・ジャクソンは睡眠薬中毒になることはなかったでしょう。プレスリーがドーナツの食べ過ぎによる過食症に悩むことも、カレン・カーペンターが拒食症で悩むこともなかったでしょう。「お金さえあれば幸せになれる」……それは、幻想に過ぎません。必要以上の欲望を絶つことが断徳の教えでもあります。これは、「足りるを知る」という精神にも通ずるものです。

智徳……正しい知識を持っていなくては、物事を正しく見ることは出来ません。宗教でも、一つの宗教の教えに凝り固まってしまえば、間違った方向に進んでいくことは否めないでしょう。残念ながら人生の参考書はあっても、人生の教科書は存在しません。人それぞれ生まれた時代も環境も、そして性格や個性だって異なるわけですから、他人の生き方をそのまま真似することなど出来ません。知識と経験を身につけながら、自分独自の人生を切り開き、自分だけの花を咲かせて見ませんか。

◆  三村次郎左衛門の選択

 赤穂浪士ファンの方であれば、三村次郎左衛門包常(かねつね)の名前ぐらいはご存知のことと思います。次郎左衛門は、赤穂浪士の中でも足軽の寺坂吉右衛門を除けば、最も身分が低い台所役人で、禄高もわずか七石二人扶持で、同士からも軽んじられていました。しかし、先祖の由緒は正しく、元は戦国の武将・三村備前守の子孫です。父親の喜兵衛は、笠間城主であった浅野長直に仕え、浅野家が赤穂に転封したのに随行して移ってきました。
 吉良上野介への仇討ちが決まると、次郎左衛門も仇討ちに加わろうとしましたが、身分が低いことを理由に無視されていました。そこで、彼は大石内蔵助に直談判します。「すでに赤穂開城となり、みな天下の浪人になったのであるから、昔の身分は過去のこと。同じ志を持ち、主家を思う気持に身分の高い低いはない」。この訴えに内蔵助も心を動かされ、討ち入りの仲間に加えられることとなりました。
 しかし、元々身分が低いばかりでなく、さらに浪人となった身の上、妻との生活はまさに赤貧で、食うや食わずの生活でした。そんな矢先、妻が妊娠しました。次郎左衛門は、悩みました。「これから自分は、命を捨てて討ち入りに参加する。生まれてくる子供の顔は見られない。それどころか、生まれてきたところで自分亡き後、妻の収入だけでどうやって育てていけるのか」
 次郎左衛門の妻も、そのことは十分承知していました。そして、二人はお腹の子供には申し訳ないが、堕胎しようと決意します。しかし、運悪く堕胎は失敗し、お腹の子供だけでなく、妻もその日のうちに世を去ってしまったのでした……。
 次郎左衛門に残されたものは、赤穂にいる老いた母親一人だけとなりました。自分が討ち入りを果たした後、老いた母親はどうするのか。討ち入りに迷いはありませんでしたが、母のことだけは最後まで気がかりでした。彼が知り合いの布袋屋勘十郎に宛てた手紙には、「ただ一人の母、頼み奉り候。かえすがえすも頼み奉り候」という切実な言葉が綴られています。

 元禄十五年十月のこと。彼は妻子のために施餓鬼供養を済ませると、大石内蔵助に伴い江戸に下りました。討ち入りの際には、裏門に回り、大槌で裏門を打ち破り、吉良上野介の寝所まで踏み込んで奮戦しました。この時の様子は、母親に宛てた手紙で、「上野介の裏門を一番に打ち破り、続いて次の門も打ち破り候。泉岳寺に引き揚げしに、内蔵助様に本日の働きをおほめ戴き候」と書いています。
 討ち入り後は、水野家お預かりとなりました。そして、翌十六年二月四日、水野家家臣・田口安右衛門の介錯で切腹して果てました。享年37歳でした。 

◆  生きるヒント

 私は若い頃、カウンセラーだけでは生活出来ず、マーケティング会社の研究員をしていた時期がありました。通産省の外郭団体の仕事を引き受けたりして、通産省の方と知り合いになり、そのご縁で神戸にある某大学の助教授にならないか、という話を頂きました。生活が苦しかった私としては、大変光栄な就職話でしたが、千葉に住んでいる両親が二人ともC型肝炎を患っていたこともあり、将来親の面倒のことを考えると神戸まで行くことを躊躇い、お断りいたしました。それから2年後、神戸で大震災があり、私の代わりに行かれた方が亡くなられたとの話を聞きました。もし私が神戸に行っていたらどうなっていたのかは、わかりません。しかし、流れとしてAではなくBになったのであれば、流れに逆らわず従った方が結果的に良いことがある。そういう思いをいつも持っています。
 地下鉄サリン事件の当日も、築地に行く予定がありましたが、インフルエンザにかかり高熱でダウン。結果的に事件に遭遇せずに助かりました。地下鉄日比谷線脱線事故では、1日前の2000年3月7日に同じ電車に乗っていました。その日は取引先の会社のN部長さんと学芸大学駅で、朝9時15分に待ち合わせをしました。西船橋から東西線に乗り、茅場町で日比谷線に乗り換えました。日比谷線のホームに着くとすでに電車が到着していたため、一番後ろの車両に飛び乗りました。恵比寿駅で席が空いたため、席に腰をかけて時計を見るとちょうど9時でした。脱線事故は、翌日の同じ電車のしかも一番後ろの車両が脱線し、死傷者が出た事故です。
 事故の事実を知ったのは、翌3月8日の昼頃です。その日は沼袋駅近くの中華料理屋で昼食にチャーハンを食べていました。店にはテレビが一台あり、ニュース番組で脱線事故のことが報道されています。そして、よくよく考えてみたら1日前に同じ電車の同じ車両に乗っていたことに気づいて、その瞬間全身に震えがきました。帰る途中、氷川神社の前を過ぎましたが、思わず鳥居の前で手を合わせていました……。
 これらのことは、単なる偶然かもしれません。しかし、不幸にして亡くなられた方も、その場に偶然居合わせて、尊い命を亡くされたわけです。今生きていることに感謝するとともに、亡くなられた方々のご冥福を祈りたいと思います。
 そもそも私が生まれた時も大変な騒ぎだったようです。当時住んでいたのは千葉の田舎でしたので、お産は産婆さんを自宅に呼んですることが普通だったようです。しかし、母親が妊娠中毒症を患っていたこともあり、自宅ではなく病院で出産することとなりました。しかし、予定時間を過ぎても子供は出てきません。これ以上だと母体が危ないという医師の判断で、急遽帝王切開に。そして、お腹を開いてみると、臍の緒が首に巻き付いて産道から出れずにいたことが分かったそうです。呼吸困難から仮死状態になっており、産声もなく、全身真っ青な体だったそうです。病院の懸命な治療で息を吹き返したそうですが、もしも自宅で出産を試みていたら……考えただけでも、ゾッとします。世の中には「災い転じて福となす」ということが、沢山あると思うのです。

 私が「成せばなる」「やれば出来る」という言葉が嫌いな理由は、無理に流れに逆らおうとすると逆効果になることが人生に多いと感じているからです。もちろん努力しないよりも、頑張って夢や目標を目指すことは大切です。でも結果的にダメだったのであれば、それはそれで「良いこと」と理解し、また心をリセットして次の目標に向かって努力することが大切なのではないでしょうか。
 暴風雨の時には、柳の枝のような柔軟性も必要である。

◆  プラス思考の勧め

山中先生の挫折と再起
 2012年、ノーベル医学・生理学賞に輝いた京大の山中伸弥教授。彼の座右の銘は「人間万事塞翁が馬」だそうで、この言葉を心の支えに研究に力を注いできたそうです。
 人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発を発表してから、わずか6年。50歳の若さで学者としての最高の栄誉を手にしたわけですが、開発までの半生は挫折と再起の繰り返しだったというから驚きです。
 中学、高校で柔道に打ち込み、足の指や鼻などを10回以上骨折した経験があり、最初に目指したのは整形外科医だったそうです。スポーツ外傷の専門医になろうと神戸大医学部を卒業後、国立大阪病院(現・国立病院機構大阪医療センター)整形外科の研修医になりました。
 しかし、直面したのは、治すことが出来ない数多くの患者がいるという現実。最初に担当した関節リウマチの女性は、みるみる症状が悪化し、痩せて寝たきりになりました。山中先生は「枕元にふっくらした女性の写真」を見つけ、『妹さんですか』と聞くと『1〜2年前の私です』との答え。「びっくりした」と当時のことを振り返ります。手術も不得手で、他の医師が30分で終わる手術に2時間かかった。「向いていない」と痛感したそうです。
 有効な治療法のない患者に接するうち、「こういう患者さんを治せるのは、基礎研究だ」と思うようになりました。その後、病院を退職し、大阪市立大の大学院に入学。薬理学教室で、基礎研究の魅力に目覚め、実験に没頭したそうです。
 大学院修了後は、『ネイチャー』などの科学誌に載っているポスドク(博士研究員)の公募広告に片っ端から応募。そして、最初に呼んでくれたサンフランシスコのグラッドストーン心血管病研究所に留学しました。
 ロバート・メイリー所長からは、研究者として成功する条件は「ビジョンとハードワーク」、つまり長期的な目標を持ってひたむきに努力することだと教えられました。そして、マウスのES細胞(胚性幹細胞)の研究に没頭しました。
 3年後の1996年に帰国。だが、研究だけに没頭出来る米国との環境の落差に苦しんだそうです。研究費はなく、議論の相手もいない。ネズミの世話も専門の担当者がいた米国と違い、全部自分でやるしかない。自分が研究者なのか、ネズミの世話をする人なのか分からなくなったそうです。
 また薬理学教室にいたので、周りはすぐに薬につながる研究をしている人ばかり。その中で、ただ一人ネズミの細胞で基礎的な研究をしている。いろんな人から「もっと医学に関係することをやったほうがいい」と言われ、自分でも「何か人の役に立っているのかな」と自信がなくなっていきました。やがて、半分うつ状態になって朝も起きられなくなり、研究を止める直前まで行ったそうです。
 「研究を諦めて、臨床へ戻ろう」。そう思い詰めた山中先生を、二つの出来事が救いました。一つは、1998年に米国の研究者がヒトES細胞の作成に成功したこと。もう一つは、奈良先端科学技術大学院大の助教授の公募に通ったことでした。公募は、「落ちたら今度こそ研究を諦めよう」との思いで応募したそうです。
 1999年12月、37歳で奈良に赴任。「研究者として一度は死んだ自分に、神様がもう一度チャンスを与えてくれた」との思いでした。
 入ってすぐ、翌春入ってくる大学院生約120人を20の研究室で奪い合うことになると知り、頭を悩ませました。無名の若造の、しかも教授がいない弱小研究室を選んでもらえるだろうか……と。「そうだ、夢のあるビジョンを示せば来てくれるかもしれない」と考え出したのが、ヒトES細胞が抱える課題を克服する、というテーマでした。だが、これは出来たとしても20年30年はかかる、もしかしたら出来ないかもしれない……と、分かっていました。でも、そういうことは一切言わずに「出来たらどんなに素晴らしいか」をとうとうとアピールしたところ、3人の学生が騙されたというか入ってくれたそうです。
 研究は当初、失敗の連続でしたが、学生や若いスタッフが励まされ乗り切ったそうです。2006年、マウスの皮膚細胞を使ってiPS細胞の作成に成功。24個の遺伝子から不可欠な4個に絞り込み、出来上がった細胞をiPS細胞と名付けました。
 2006年8月、科学誌『セル』に論文が掲載されて間もなくのこと。米国で行われたシンポジウムに参加。その夜、宿舎のバーで飲んでいたら、欧州の研究者たちが「あの論文、読んだか」「四つ(の遺伝子)で出来るなんて、そんなのありえない」……と話しているのが聞こえてきて、「あぁやっぱり、みんな疑いの目で見ているんだなぁ」……と。
 2007年11月には、人の皮膚細胞からもiPS細胞を作ったと発表。これが、ノーベル賞受賞へとつながることに……。
 今は「この技術を、本当に患者の役に立つ技術にしたい。その気持ちが研究の原動力」と山中先生は言います。新薬の開発、難病の解明、再生医療など……近い将来、幅広い分野でiPS細胞が人々の役に立つことになるでしょう。
 最後に、山中先生が教え子と酒を飲む時に次のような話をよくするそうです。「仕事と研究とは違う。仕事は、他人が既に手がけたことをやるので成果が出やすい。だが、研究は成果が出るか分からず、誰もやらないことをしないといけない」……と。また記者会見では、次のような言葉を述べました。「本当に辞めたくなる、泣きたくなる二十数年でした。家族の支えがなければ、研究という仕事は続けてこれなかった」
 ノーベル賞の賞金は、日本円で約9500万円。これを共同受賞者のジョン・ガートナー博士と2人で分けることになります。使い道について聞かれると「国からの支援だけでは出来ないことが沢山ある。仮に支援がなくなり、研究所で雇用している人を解雇せざるを得なくなった時などに有効活用したい」
 医学部への進学を勧めてくれた父親(故人)について聞かれると、「iPS細胞が医療に役立つようになってから、(天国で?)父親に会いたい」と語りました。


 1800年4月19日、伊能忠敬が蝦夷地測量のために江戸・深川の自宅を出発しました。それに因み4月19日は「地図の日」となっています。
 “プラス思考”という言葉がありますが、伊能忠敬はまさにその典型的な人物です。蝦夷地出発に当たっては、こんなエピソードが残っています。
 明日は出発という前の晩のこと。送別の宴の際、酒樽の底が抜けて酒がこぼれてしまいました。ある人が「これは、縁起が悪い」と言うと、忠敬は「古樽だからしょうがない」と言いました。
 翌朝のこと。家の前でツバメの子が巣から落ちて死んでいました。ある人が「これは、縁起か悪い」と言うと、彼は「羽が生えていないから、落ちれば死ぬ」と言いました。いざ出発ということで、歩き出した途端、草鞋の緒が切れました。そこでまた「縁起か悪い」と言われると、「履き慣れた古草鞋だったから、新しいのと取り替えよう」と言って、耳を貸さなかったといいます。
 「人生五十年」と言われた時代に五十歳からの再出発を誓った忠敬。「自分はもう年だから」「いまさら遅すぎる」、そういったマイナス思考では、短い人生、何も出来ないのかもしれません。

肥満遺伝子に乾杯(完敗?)
 肥満遺伝子検査の結果が、届きました。なんと予想通り、β3AR遺伝子に変異が……。それだけでなく、UCP1遺伝子にも変異があり、両方が重なるので1日あたり300kcalの省エネ体質、1年だと15kgの体重増加というスゴイ結果が出てしまいました。
 この省エネ体質は、両親から受け継いだものなのでしょう。考えてみれば、父親は若い頃出征し、戦後、シベリアに抑留されました。待っていたのは、零下の地での森林伐採労働。主食は黒パンとジャガイモのスープのみで、栄養失調のため65キロあった体重は32キロとなり、死にかけたそうです。しかし、それを救ったのが父親が持っていた肥満遺伝子(省エネ体質)ではなかったのかと思うのです。
 父親が無事帰国し、千葉の佐原という地で母親と出会い、そして結婚をして私が生まれた。今、自分が生きているということは、飢餓に耐えてきた肥満遺伝子のお蔭なのだと感謝の気持ちが湧いてきました。
 ところで……あなたは、肥満遺伝子検査しましたか?

あとがき
 私が幸運だったと思うこと。
1、五体満足の身体で生まれてきたこと
2、日本という経済的に豊かな国に生まれたこと
3、戦争のない時代に生きていること
4、まともな家庭に生まれ育ったこと
 これ以上、何を望めというのでしょうか。当たり前のことを当たり前のように感謝する。そのことを忘れないよう心がけています。  

◆  細野正文の選択

 細野正文氏は、タイタニック号における唯一の日本人生存者でもあり、またミュージシャン・細野晴臣氏の祖父に当たる方です。
 1912年のこと。細野氏は、第1回鉄道院在外研究員として、ロシアとイギリスの鉄道施設の視察を終えてニューヨーク経由で日本に帰国するため、サウサンプトン港からタイタニック号に乗船しました。しかし、その後、タイタニック号は沈没。その際、他人を押しのけて救命ボートに乗ったとの誤報が広まり、新聞などで大きな社会的批判に曝されます。……というのも、救命ボートは婦人子供を優先して乗せるように決められていたようで、初めは「タイタニック号と運命を共にしよう」と心に決めたようです。しかし、その一方で「もう愛する妻や子供たちを見る事が出来なくなるのか……」と考えて深い悲しみの中にいたとも手記には書かれています。
 その時でした。救命ボートを降ろしている船員が、「もう二人ほど乗れるぞ!」と叫びました。すると一人の男性が、救命ボートに飛び乗りました。細野氏はこれを見て、「これが最後のチャンスかもしれない」と思い、思わずボートに飛び乗ったそうです。しかし、自ら命を助けたことが、その後有色人種に差別的な思想を持っていた白人乗客の書いた手記により、卑劣な手段で強引に乗り込んだ「恥ずべき行いをした日本人」として伝えられ、新聞や教科書などで批判を浴びることになりました。そしてこの批判により、翌年には鉄道院主事を免官。その後、彼は日本男児として一切の弁明をせず、その不当な非難に耐えながら1939年、69年の生涯を終えました。
 1981年のこと。正文氏が救助直後に残した事故の手記が発見されました。細野氏の家族は、彼の手記の存在を知っていましたが、引き出しの底にしまい込んであったせいか、所在がわからなくなっていたそうです。
 1997年、タイタニックの遺品回収を手がけるRMS財団は、細野の手記や他の乗客の記録と照らし合わせた調査結果を報告しました。それによると、「恥ずべき行いをした日本人」という手記を書いた白人と細野とは別の救命ボートに乗っており、人違いであることが確認されたそうです。手記には、細野が乗り込んだ救命ボート(10号ボート)にはアルメニア人男性と女性しか乗っていなかったと記されていました。事故当時、細野氏は髭を生やしていたこともあり、「アルメニア人2人」と記録されていたようです。一方、卑劣な日本人と記録した白人は別のボート(13号ボート)に乗っており、同乗者には東洋人がいたことが明らかになりました。これは、事故の1ヵ月半後に帰国した細野を読売新聞がインタビューした際の記事内容とも一致していました。
 しかし、事故からかなりの時間が経っており、その間、菊川忠雄さんらが犠牲となった"洞爺丸海難事故"の際に「タイタニックの非紳士的対応」の誤報が取り上げられるなど、誹謗が蒸し返されることもありました。また世界のメディアでも同様な扱いを受けるなど、未だ名誉回復は十分なされていないと言ってもよいでしょう。
 タイタニック号の乗員乗客は、2224名。うち、事故で犠牲となった人は1513名。1等船客だけが救助されたように語られていますが、男性はそうともいえません。婦女子は9割以上が救助されましたが、男性は3割。細野氏と同じ2等船客は婦女子が8割、男性は1割。3等船客は婦女子が5割弱、男性が1割強。また乗員の4人中3人は、最後まで持ち場を離れずに犠牲となったそうです……。多くの人が犠牲となった事故だったのに自分は助かったしまったこと、それに対する申し訳ない気持ち、それが「あえて非難に反論しない」態度につながっていたのかもしれません。
 42歳の時にタイタニック号の事故に遭遇し、その後、27年間、批判に耐えてきた細野正文さんが伝えたかったことは、いったい何なのでしょうか。真実なのか、それとも後悔の念なのか……。  

◆  いじめの問題

一体いつになったら、この世から「いじめ」というものが無くなるのだろう?
新聞を見るたびに、ニュースを聞くたびに、ただただ溜め息しか出せない自分の無力さと何も救えない学校や政府、文部科学省に憤りを感じています。
2010年10月、群馬県桐生市で小学校6年生の上村明子さんが、学校でのいじめを苦にして自殺しました。裁判での訴状によると、明子さんは同級生から「臭い」と悪口を言われたり、無視されるなどのいじめを受け、自宅で自殺。当時の担任教諭らは、いじめを認識しながらも放置したと両親は主張しています。
彼女は、お母さんのために黄色いマフラーを編んでいました。そして、そのマフラーを自分の首にかけて子ども部屋で自殺したのです。毎年、お正月には家族で映画を見に行きました。今年の映画館の座席は、1人分余ってしまいました。近づく中学進学の春。店頭のセーラー服を見るたびに「明子も着るはずだったのに……」とご両親の悲しみが募ります。
部屋に残る教科書やノートを開き、家具と壁の隙間や机の引き出しも何度確かめたことか。確かめる度、父親の竜二さんはため息を繰り返してきました。あるはずの「遺書」がない。「いつか必ず、明子が残したメッセージが見つかるはず」と信じています。それは……事実を知りたいから。学校で何があったのか、なぜ死ななければならなかったのか。両親は裁判を通じながら、「親として二度と悲劇が起きないよう、どんなに月日がかかっても事実を明らかにしたい」と決意を語りました。

2011年10月、大津市内の中学2年の男子生徒が、いじめを苦に自殺した問題。男子生徒の自殺後、父親が滋賀県警大津署に被害届を3回提出しようとしましたが、同署は「犯罪事実の認定が困難」として不受理。また学校が全校生徒を対象にアンケートを実施したが、市教委が事実認定したのは「成績カードを破る」「死んだハチを食べさせられそうになった」などだけ。アンケートに記されていた「金品の要求」「万引の強要」などは、目撃者がいないとして事実として認められませんでした。
さらにアンケートでは、「教室に貼ってあった男子生徒の写真の顔に、死亡後もいじめをしたとされる生徒が穴を開けたり、落書きをしたりしていた」などに関する記述があったこと。また教諭が「見て見ぬふり」「一緒になって笑っていた」など、いじめを放置していたことを示す回答が少なくとも14人分あったことが関係者への取材で判りました。
助けを求めても、教師も教育委員会も役に立たず、さぞ無念であったことだろうと察します。学校でのいじめ、親のわが子への虐待、上司の部下へのパワハラ……強い立場に立つ者が、寄ってたかって弱い立場の人をいじめるという「人間としてあるまじき行為」が今の日本で平然と行われていることに怒りを感じます。何とも情けない世の中です。未成年者の場合、犯罪を犯した若者だけでなく、親としての監督責任を問う意味でも「親が刑事責任」を一緒に負う法律を早く作ってほしいと思います。

1994年に同級生4人から受けたいじめを苦にし、自ら命を絶った大河内清輝君(享年13)。愛知県西尾市の自宅には、今も学生服姿の清輝君の遺影が飾られ、大きな白百合の花が供えられています。父・祥晴さん(65才)は、毎日遺影に手を合わせ、清輝君にいろいろ語りかけているのだそうです。
「清輝が服を汚して帰ってくることもあったのに、私は気づいてあげられなかった。清輝に対しては、本当に“ああすればよかった、こうすればよかった”という思いがいっぱいで。謝っても謝りきれない。謝るなんて言葉ではいえないものがあるんです……」
大河内さん夫婦は、清輝君が自殺した後、いじめに苦しんでいる子供たちに向けてメディアを通じて様々なメッセージを送りました。すると……全国の子供たちから反響があり、驚くほど多くの手紙が寄せられたそうです。中にはいじめを受けている子供たちからの電話相談もあり、1995年の夏休みには全国から子供たちが来て、大河内さんの家に泊まっていったこともあったという。
「その子たちが、悲しい気持ちから私たちを解き放ってくれた。本当にそのことで救われたと思っています」(祥晴さん)
大津の件では、加害生徒とその両親はいじめの事実を否認しています。だが、大河内さんは言います。
「今からでも遅くない。(大津の件で)いじめをした3人の子供は、警察に話す前に、亡くなった子の(遺影の)前で家族に直接何をしたか話してほしい。それが、子供たちに残された唯一の道ではないでしょうか」

内藤大助(ボクシング元世界チャンピオン)さんの言葉
 いいか、絶対にあきらめるな。いじめが一生続く、自分だけが不幸なんだって思ってるだろ? 俺自身もそうだったから。でも、いじめはきっとなくなるものなんだ。
 俺は中学2年の時からいじめられた。はっきりした原因は俺にもわからないけど、同級生から「ボンビー(貧乏)」ってあだ名をつけられて、バカにされた。
 北海道で育ったんだけど、母子家庭でさ。自宅で民宿をやっていて、母が朝から晩まで働いていた。
 家は古くてボロくて、制服も四つ上の兄のお下がり。つぎはぎだらけだったから、やっぱりバカにされたよ。せっかく祖母が縫って直してくれたのに、俺はバカにされるのが嫌で、わざわざハサミでつぎはぎを切ったこともあったよ。
 中3になってもしんどくて、胃潰瘍になった。学校で胃薬を飲んでいたら、先生から「何を飲んでいるんだ」って叱られた。理由も聞いてもらえず、つらかったな。あのとき一瞬、先生が助けてくれるかもって思ったんだけど……。
 高校を出ても、「いじめられて、ボンビーで、俺は生まれつき不幸だ」と、ずっと思っていた。上京して就職しても、帰省したらいじめっ子に会うんじゃないかって怖かった。
 強くなりたかった。不良のような、見せかけの強さだけでもいいからほしかった。暴走族に誘われたら、入っていたよ、たぶん。
 そんなとき、たまたま下宿先の近くにボクシングジムがあったんだ。通えばケンカに強くなれる。強くなれなくても、「ジムに行ってるんだ」と言えば、いじめっ子をびびらせられるって思ったね。
 入ってみたらさ……楽しかったなあ。周りも一生懸命で、俺もやればやるほど自信がついて、どんどんのめり込んだ。自分を守るために始めたのに、いつの間にかいじめのことなんてどうでもよくなっていた。不思議なもんだ。
 ボクシングの練習がつらいときは「いじめに比べたら大したことない」って考え、マイナスの体験をプラスに変えてきた。でもね、「いじめられてよかった」なんて思ったことは、ただの一度もないぜ。いまだにつらい思い出なんだ。
 「いじめられたらやり返せ」っていう大人もいる。でも、やり返したら、その10倍、20倍で仕返しされるんだよな。わかるよ。
 俺は一人で悩んじゃった。その反省からも言うけど、少しでも嫌なことがあれば自分だけで抱え込むな。親でも先生でも相談したらいい。先生にチクったと言われたって、それはカッコ悪いことじゃない。あきらめちゃいけないんだ。

ヨイトマケの唄
 美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」。この歌が生まれるきっかけとなった出来事があるのだそうです。それは美輪さんが子供の頃、ふと耳にした「いじめられっ子とその母親」のやり取りだそうです。
 「勉強が出来たり、お金があったり、喧嘩が強いから偉いんじゃないよ。人間で一番偉いのは、お天道様の前で胸を張って一生懸命生きる人なんだ。正直に生きることなんだ。だからお前は偉いんだよ」
亡くなった私の父親が好きな歌でした。この歌を聴くと、父親のことを思い出します。


◆  元禄大地震

 元禄16年(1703年)11月23日深夜、野島崎の南海上を震源とする推定マグニチュード8.2の大地震が起こります。震源に近い場所では、震度5〜7と推定。この地震により、福島から紀伊半島にわたる広い範囲で津波が発生し、高さは4〜8メートルに達しました。房総だけでも4000〜5000人以上の死者を出しています。
 被害は九十九里沿岸に多く、2000人を超える溺死者が出ました。この時期はイワシの豊漁期のため、多くの漁業関係者が海岸近くに納屋集落を作っていたこと。また津波が一宮川等の河川を遡り、かなり内陸にまで押し寄せたことが被害を広げました。安房国長挟郡横渚(よこすか)村の集落・前原(鴨川市)では、600余軒の家屋が全て流失し、1300人を超える死者を出しました。なお津波による犠牲者の供養碑が、各地に建てられています。
 糸日谷家の墓がある大網白里町北今泉・等覚寺にも供養塔があります。この津波塚は、寺の境内ではなく寺から離れた海側、諏訪神社の向かいの付属墓地の一角にあり、糸日谷家の墓のすぐ近くです。63名が埋葬されたこの塚は、正徳5年(1715年)、北今泉村の人々により建てられた13回忌の供養塔で、碑文には「妙法海辺流水精霊奉唱題目壱千部 願主、北今泉村 正徳5年11月23日」とあります。
  この地震で、房総半島南端の大きいところでは地面が5メートルも隆起し、島だった野島は陸続きとなり、以後、野島崎と呼ばれるようになりました。
 なお元禄大地震以外にも、房総近海を震源とする大地震は、慶長9年(1604年)、延宝5年(1677年)、安政2年(1855年)に発生しています。

 糸日谷家の先祖が津波の被害にあったかどうかは、話として伝わっていません。しかし、尊い命の連鎖によって自分がこの世に生まれ、生きているということを大切にしたいと思います。また亡くなられた人々の犠牲の元に「今の幸せがある」ということを、心に留めながら生きて生きたいと思います。
 最後に2011年3月11日に発生した東日本大震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

富士川の捜査活動
 東日本大震災の津波で、児童4人と教員1人が現在も未だ行方不明の宮城県石巻市立大川小学校周辺で、川を堰き止め、水をポンプで汲み上げての捜索活動が行われました。捜索では、大川小前を流れる富士川を約1.3キロに渡って堰き止め、重機で川底をさらって行われます。
 大川小では、児童108人のうち70人が亡くなりました。不明児童の家族らは、富士川を排水して捜索するよう求めていましたが、ようやくそれが実現することになりました。
 親にとって、子供はかけがえのない大切な宝物。どうか全員が自宅に帰れることを……その日が早く来ることを願って止みません。


◆  運がいいのか悪いのか

 運がいいのか悪いのか、それは正直なところ誰にもわからないと思います。なぜならば、人は同時に2つの人生を歩むことが出来ないからです。
 例えば、Aという会社に入れず、Bという会社に入社した。Aという人と結婚できず、Bという人と結婚した。その時は「自分はなんて運が悪いんだろう」って思うけど、BではなくてAの道を歩んだとしても、果たして幸せになれたかなんて、実際に進んでみなければ分からない。大切なことは、たとえどんな状況になったとしても、結果としてそれを受け入れて頑張ることだと思います。
 こんな女性を知っています。
 彼女は学生時代からの婚約者がいて、就職活動をしませんでした。しかし、卒業直前に別れが……。傷心旅行を兼ねて、ある地方のペンションに泊まり込みでアルバイトに行きました。そこで、ペンションのオーナーの息子と知り合い、めでたく結婚。3人の子供をもうけましたが、ペンションは不況のあおりで倒産。それから夫婦喧嘩も多くなり、やがて離婚。今は実家に帰ってヤクルトおばさんをしながら、3人の子供の生活を支えて頑張っています。
 先のことは、誰にもわかりません。人生万事塞翁が馬だということです。
 東日本大震災以来、日本人はなぜこんなに我慢強いのか。海外のメディアがいろいろ取り上げています。その理由は、何でしょうか?
 確実に言えることは、日本人は太古の昔から幾度もの地震と津波に遭遇し、そのたびにみんなで力を合わせ、協力し合い、強くたくましく生き延びてきた歴史があるということです。日本人の国民性を知る一番の近道は、災害の歴史について勉強することです。大きな災害であればあるほど、みんなで助け合わなければ乗り越えることは出来ません。日本人の「和をもって尊しとなす」という精神は、度重なる災害によって培われたものなのです。
 千年に一度あるかないかの大地震の時に生まれてしまったことは、確かに運が悪かったかもしれません。しかし、そこから学ぶことも多いはずです。家族の絆とか、地域社会の絆とか……いろいろ。
 一番いけないことは、現実を直視せず、そこから逃げること。逃げたところで、何も変わりません。もう一度心をリセットし直して、新しい未来を切り開いていく。日本人の先祖が持っていたDNAは、われわれ現代人の誰もがみな受け継いでいることを忘れずに、新しい日本を再建するために頑張らねばならないと感じています。

独り言
 それは、高校1年の国語の時間だった。国語のK教師が「人は何のために生まれてきたのか、答えられる人」と我々に質問した。私は、困った。今までそんなことを考えたことすらなかったからだ。すると同級生のN君が手を挙げてこう言った。「人は幸せになるために生まれてきました」。私は、完敗だった。少なくとも……この時点では。
 しかし、その後、考え続けた。「生まれてきても幸せになれなかったら、生まれてきた意味がないのか?」。本当に……そうなのか?
 ようやく人生の意味について、私なりの結論が出たのはスピリチュアルな本に出会ってからだった。私が心理カウンセラーを続けてきた理由、その一つが「たとえ不幸な人生であったとしても、必ず生まれてきた意味がある」。それを多くの方々の人生体験や自分の不思議体験を通じて、解明していきたいからだ。
 人生は、決して思い通りにはならない。自分の人生を振り返っても、なぜ逆風が吹いたのか、なぜトントン拍子に行ってしまったのか、説明が全くつかないことの方が多かった。まるで追い込み漁の餌食となった魚のように、自分では意図しない方向へと導かれ、見えざる力によって左右されてしまったような気がする。
 しかし、楽しいだけでは修行にならないし、苦しいだけでは絶望してしまう……。だからこそ、苦あれば楽あり、楽あれば苦ありのように人生はうまく出来ている。
 若い頃、生活費が底をついでしまったことがあった。それにより、たった1杯のかけそばを食べるときでも幸せを感じることが出来るようになった。仕事が全くなかった時代も、逆に多忙を極めてこのままでは過労死してしまう……という時代もあった。だからこそ、ゆっくりと流れる雲をボーッと眺めて、1杯のコーヒーを飲む時間が幸せに満ちた時間に感じられる。
 幸せも不幸も、その人の考え方次第で変えられる。そして、その時は幸せだったと思ったことが、後になって不幸なことだったと後悔することもあるし、逆に不幸だと思ったことが幸せをもたらしてくれることもある。大切なことは、最後まで心を込めて精一杯生きることではないかと思う。人生は結果ではなく、生き抜く過程が大切なのだから……。

MY訳詞『虹』(歌・森山直太朗)
広い空を見つめながら、僕は今過ぎた日々を思い出している
わずかな君の温もりとボロボロになった心
まるで何事もなかったかのように雲はゆっくりと流れていく
輝いた日々に君は遠い未来を夢見ていた
しかし、聞こえてきたのは波のざわめきとおぼつかない言葉だけ
出会いから別れまでは束の間の時間
不確かな愛が壊れないように大切に守っていた
出会いだったものが別れとなり、喜びが悲しみに変わる
人生ってつらいもの、雨でぬかるんだ坂道を登るように
そして、時が過ぎ君のことを懐かしく思い出している

風のように空しく過ぎ去った日々を
遠い未来を夢見た僕は寂しく笑う
まるでアスファルトに咲いたヒナゲシのように弱々しく
喜びだったものが悲しみとなり、出会いが別れに変わる
人生ってはかないもの、風に空しく揺れるブランコのように
「出会い」だったものが「別れ」となり、「喜び」が「悲しみ」に変わる
いたずらに時は流れてしまったけれど
何もかもが失われてしまったわけではない
雨上がりの坂道の上には、色鮮やかな「虹」が架かっている
その虹は、二人の心の中に「光」となって輝いている


◆  天を恨まず、運命に耐え…… 

 2011年3月24日(金)、避難所となっている宮城県気仙沼市階上(はしかみ)中学校の体育館で卒業式が行われました。卒業生の内一人は死亡、二人は行方不明になっている中での卒業式でした。卒業生代表として答辞を読んだのは、梶原裕太君。以下、梶原裕太君の答辞全文です。
 「階上中学校と言えば防災教育と言われ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私達でした。しかし、自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私達から大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というには、酷過ぎるものでした。辛くて悔しくて堪りません。
 しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助けあって生きて行くことがこれからの私達の使命です」
 何度もこみ上げてくる嗚咽に堪えながら、懸命に答辞を読み上げた彼の姿、彼の言葉は、多くの人々に感銘を与えました。天は多くの人々の命を奪い、生活を奪い、ささやかな幸せさえも奪っていった。泣いても悔やんでも、過ぎてしまった時間を取り戻すことは出来ない。それでも「天を恨まず、運命に耐え、助けあって生きて行くことがこれからの私達の使命です」……と最後を結んだ梶原裕太君の言葉は、我々に深い感動と感銘を与えました。
 私は、嬉しく思います。日本には、まだこんなに立派な若者が存在する。ならば東北の未来も、そして日本の未来もきっと希望があるはずです。幕末にペリーが来航した際、命がけで海外への密航を企てた吉田松陰と金子重輔について、後にペリーは『日本遠征記』の中で二人の行動を絶賛しました。そして、このような若者がいる日本について「この国の将来は、なんと有望なものか」と言い切っています。
 日本の未来は、若者に託されています。どのような若者がいるかによって、明るい未来になるか、それとも破滅の道を歩むかが決まってしまいます。
 どうか亡くなられた仲間のためにも、精一杯頑張って欲しい!! そんなエールを送りたくなるような素晴らしい答辞でした。ありがとう……。

◆  ビートたけし"夢"について語る

 よく「一生を懸けられる仕事を探せ」なんていう親や教師がいる。だけど「一生の仕事」なんてそんなに簡単に見つかるワケがないだろ。で、たとえラッキーなことに「一生の仕事」ってものを見つけても、それで食っていけるかは別問題。才能・努力だけじゃなくて「運」って問題が大きいんだからね。
 オイラだって、別に最初からお笑い芸人になりたかったワケじゃない。いくつかのタイミングと運が重なって、若い頃の自分じゃ想像できないような大人になっちまった。芸人や映画役者なんて、食えなくて当たり前、コンビニの店員をやりながらでも続けられてれば、運がいいってことなんだよ。
 今じゃ世の中豊かになって、たいがいのモノは手に入るようになった。それで、親も子供も世の中も「努力すれば夢は叶う」と勘違いしてしまったのかもしれない。でも本当は「努力すれば叶う夢もごくまれにある」ってことなんだよ。
 オイラがガキの頃は、自然とそれが分かるように育てられてきた。ウチの近所じゃ、「学者になりたい」って子供には、「無理だよ、お前バカなんだから」っていっちゃうし、「グローブ買ってくれ」っていえば、「ウチは貧乏だからダメ」で終わり。そういう毎日だから、子供はおのずと自分の「分」をわきまえることを覚えていったんだよな。
 努力しても叶わない夢があるって教えるのが親の愛。
 遼クンや祐ちゃんみたいになれるのは、どう考えたってごく一部なんだよ。人間は決して平等じゃない、努力したって報われないことの方が多いっていう現実を、子供の頃から親の責任で叩き込んでおいてやることなんだよ。
 父親に出来るのは、いつか子供がうまくいかずに傷ついた時に、それでも生きていけるようなタフな心を育ててやること。だから、子供の心を傷つけることを恐れちゃいけないと思うんだ。
 普通に働いて、結婚して子供を作って、普通に死んで行くってことが、いかに大変で素晴らしいことかって教えた方がいいと思うんだよ。そんな当たり前の生き方を、どこかでバカにしてきたヤツは多いんじゃないか。
 

◆ 

 

◆  不思議体験シリーズ

このコーナーは、私が今まで体験してきた不可思議な現象をブログなどに掲載したものを集めたものです。いずれも事実をありのままに記したものですが、夢物語と思って読んで下さっても結構です。

この世の中、不思議なことは山ほどあります。ただそれに気づくか、気づかないかの違いだけ。「気づく」ことで、貴方の生き方が良い方向に向かうのであれば幸いです。

まえがき
ある警部補のお話
それは、東日本大震災の被災地に派遣された2日目のこと。12歳の女児の遺体が、母親に付き添われて廃校になった暗い体育館に運ばれてきました。母親は「お巡りさん、私を殺して!! 娘が悲しんでいるから、そばにいかなきゃ!!」……そう泣き叫んだそうです。
話を聞けば、母子家庭で友達のようだったという親子。津波に飲まれ、何とかがれきにつかまったものの、自分が救助されている間に娘は流されてしまった……。娘が荼毘に付されるまで、氷点下の気温の中で、母親は自分の上着を娘にかけて何日も寄り添っていたそうです。
43歳の警部補にも、同じ年頃の子供がいました。彼は、泣きながら母親の話を聞き続けました。

 死ぬことよりも、生き続けることの方がはるかに辛い……そんな人生さえある。親にとって、わが子はかけがえのない宝物。そんな大事な宝物を失ってしまった今、これからどうやって生きていけばいいんだろう。
 人生とは、どうしてこんなに不条理なんだろう。無慈悲なんだろう。
 それでも人は、歯をくいしがってでも、残された人生を生きていかなくてはならない。
 人生に絶望する前に、一度はぜひ読んでおいて欲しい本がある。
一冊は、江原啓之著『人はなぜ生まれ いかに生きるのか』(ハート出版)
二冊目は、美鈴著『あの世のひみつ』(徳間書店)

幽霊アパート
 私は、3歳から6歳まで千葉市登戸のアパートに住んでいました。ある日、同じアパートに住む若い男性が東京湾で入水自殺をしました。その日の夕方、わたしの母はアパートの入口で、その男性に会ったそうです。男性は「海のほうに散歩に行く」と言って出たまま戻らず、翌日、心配になった母は警察に連絡。合鍵で部屋に入ると、机の上に遺書があったそうです。
 それから3日間、父親は仕事を休んで彼を探しに行きました。海水パンツを履いて、海の沖まで隈なく探したそうです。「稲毛の先まで行ったけれど、見つからなかった」、父親はそう言いました。行方不明となって1週間が経った頃、警察から幕張の海岸で遺体が発見されたとの連絡が入りました。潮で遠くまで流されてしまったのでしょうか、もう50年近く昔の話です。
 それからしばらくして、アパートに幽霊が出るとのうわさが広まりました。ある男性は、飲み屋で飲んだ後、アパートに入ると自分の目の前を若い男性が歩いている。そして、部屋のドアに吸い込まれるようにして消えていった……。初めは酔っ払いのたわごとと思われていた事件も、次第に目撃者が増えるにつれて冗談では済まなくなってきてしまいました。
 そんなある晩のこと。私はトイレに行きたくなり目を覚ましました。トイレは共同トイレで、いったん部屋を出て廊下の突き当りにありました。私は初め母親を起こそうとしましたが、熟睡していて起きません。次に父親を起こそうとしましたが、これもダメ。意を決して部屋のドアを開けたところ、背後でコン、コン、コンと廊下を歩く人の足音がする。後ろを振り返りましたが、誰もいません。私は恐怖のあまり、布団にもぐってそのまま寝てしまいました。翌日、案の定、私は布団の中でお漏らしをしていました。しかし、事情を説明したところ、父も母もこの時ばかりは叱ることはありませんでした……。そんなアパートでしたが、私にとっては思い出がいっぱい詰まった場所でした。その後、老朽化が進んだアパートは取り壊されることとなり、私たち一家もそこから引っ越していきました。
 それから50年近く経ちました。父親が胃のポリープ切除のために千葉みなと病院に入院することに。病院から呼び出しを受けた私は、JR西千葉駅から徒歩で病院に向かいました。途中、子供の頃に住んでいたアパートの近くを通り過ぎました。トンボやバッタを取った空き地は住宅地に、盆踊りで賑わった松林は駐車場に。坂を下ると国道14号線の向こうは海で、当時は潮干狩りや海水浴が出来ましたが、今は埋め立てられて団地に変わっています。しかし、どんなに風景が変わっても、あの頃の思い出はザルツブルグの小枝のようにキラキラと私の心の中で輝いていました。

七夕の思い出
 
小学生の頃、知り合いのおばさんが「今夜は七夕だから、遊びにおいで」と言われて自宅にお邪魔したことがありました。その時、話してくれたのが昭和20年7月7日におばさんが体験したという七夕空襲でした。7月7日の未明、米軍B29の襲撃を受け、千葉市街の7割が焼け野原に。死者は900人とも1200人ともいわれ、千葉市民11万人のうち、4万人が被災したという空襲です。
 おばさんは、2人の子供の手を取って、命からがら防空壕に辿り着いたそうです。空襲があればあれを持ち出さそう、これを持って逃げようと考えていたそうですが、いざ空襲に襲われると頭はパニック状態で、家から持ち出していたものは床の間に飾ってあった小さな観音様の像一つだけだったそうです。
 私が幼稚園生の頃に住んでいた場所も、空襲にあったのでしょうか。空き地で遊んでいると何度か不思議な人たちを目撃した覚えがあります。若いお母さんが赤ちゃんを背中に背負い、小さな女の子の手を引いて松林に逃げていく姿でした。不思議なのは、頭に防空頭巾をかぶり、絣の着物を着て、モンペを履いている姿でした。昭和30年代半ばとはいえ、そんな恰好をしている人は珍しかったからです。しかも駆けていく足音はまったく聞こえず、逃げ惑う姿だけが見え、いつも松林の中で忽然と姿を消してしまう……。夢なのか幻覚なのか、それとも幽霊なのか……不思議な体験でした。
 戦争によって、多くの方が亡くなられたのですね。貴重な体験を話してくれる人も高齢で亡くなる方が多く、貴重な戦争体験が風化してしまうことが残念でなりません。日本が二度とこのような過ちを犯さないよう、今の子供たちに伝えていける活動を少しでもやっていきたいと思っています。

ガマガエルのたたり

 それは、私が小学校5年生の時のことです。家の近くには田んぼがあり、私はよく遊びに出かけていました。ある日のこと、田んぼに行くとガマガエル(ヒマガエル)が大量発生していました。私はバケツの中に5、6匹ガマガエルを入れて持ち帰り、家の庭にある池に放して飼っていました。
 それから1週間が経った頃、私の右目がものもろいになりました。瞼の下が、まるでガマガエルのコブのように膨らんでいます。病院に行って軟膏をもらいましたが、右目のものもらいが治ると今度は左目がものもらいに。左目が治ると、次は右側の鼻の穴にガマガエルのようなコブができて呼吸が出来ません。そして、右側が治ると左側の鼻にコブが……。鼻が治ると今度は右耳の穴にコブができ、右耳が治ると左耳の穴にコブが出来ました。
 そこまでくると今まで静観していた母親は、言いました。「これはガマガエルのたたりだ。田んぼに戻してきなさい」。私も不思議な現象だったので、素直に従いカエルを田んぼに戻しました。それ以来、不思議な現象はピタリと止みました。
 今思えば、何だったのかよく分かりません。ガマガエルの耳下腺にはセンソという毒があり、カエルを触った手で顔などを擦ったことで起こったのかもしれません。しかし、原因は何であれ、平和に暮らしていたカエルを興味本位で捕まえてきたことは、やはりいけないことだと思いました。以来、無益な殺生はしないと心に決め、釣りなどをしてもかならず放してやるようにしています。

従姉の墓参り
 私が小学5年生の時に、従姉が骨肉腫というがんで亡くなりました。日体大を卒業して、憧れの体育教師になったものの、わずか教員生活2年で死去されるとは、本当に心残りの人生ではなかったかと思います。
 お葬式の後、私の母親は毎晩のようにうなされていました。従姉が枕元に立っては、「喉が渇いたので水が欲しい」「お饅頭が食べたい」「花を添えて欲しい」などと言ってくる。そこで母親は従姉の実家から写真を貰い、仏前に飾って毎日のように拝んでいました。三回忌も過ぎた頃には、枕元に立つことも減ったようで、母親は「三回忌が済むまでは、ちゃんと供養が必要だ」などと言っていました。
 お盆や彼岸の日には、千葉からお墓がある佐原まで毎年のようにお墓参りに行きました。不思議なもので、墓参りにいく前の晩には、突然家の中にセミが入ってきたり、トンボや蝶なども夜だというのにやってきました。そして、お墓に着くと墓石にセミの抜け殻などがあるのには、いつもびっくりしました。また母親は「お墓参りの日には、雨は降らない」と言っていました。しかし、ある日、朝起きてみるとどしゃ降りの雨。父親は「明日にしよう」と言っても、母親は聞き入れません。車で出かけていくと、お墓に着いた頃には雨がウソのように止んでおり、墓参りを済ませるとまた降ってくるようなことが何度もありました。偶然のことなのかもしれませんが、今では懐かしい思い出の一つとなっています。

父親が連れてきたもの
 これは、私が中学3年生の夏休み。中学校の臨海合宿で御宿に行った時の話です。楽しみにしていた海水浴でしたが、最初の日は台風の接近で泳ぐことは出来ませんでした。浜辺から海の方角を見渡すと、荒波を潜り抜けるかのようにモーターボートが走っています。「危ないのではないか」、そう思った瞬間、案の定ボートは荒波に飲まれて転覆しました。その夜は、御宿中学校の体育館に寝泊りしましたが、流れてくるラジオニュースから、ボートに乗っていたのは若い男女4人。うち男性1名と女性1名は岸まで泳ぎ着いたが、残りの男女1名ずつが行方不明ということがわかりました。
 翌日のこと。波も穏やかとなり、私たちは海水浴を楽しむことが出来ました。そんな矢先、遠くの方から「水死体が上がったぞー!!」という声が。しばらくすると、サイレンを鳴らした救急車が海岸の前に止まりました。同級生の中には水死体を見に行った人がいたようですが、以前私は事故死の死体を見た後、1週間も食事が喉を通らなかった経験があるため、見に行くことはしませんでした。
 話は、御宿から帰った翌日の朝のことです。母親が、夜中に目を覚ますと枕元にずぶ濡れの若い男性が立っており、何かしきりにこちらに話しかけてくる。何のことだか分からないが、思い当たることは、ないのか?と聞きます。そこで、私は初めて御宿海岸での一件を話しました。すると傍らで聞いていた父親が、驚いたように言いました。実は、父はPTA役員として御宿の合宿に一緒に参加していました。
 父親の話は、こうでした。水死体の所まで行くと、救急隊員がおり、救急車まで遺体を運ぶのを誰か手伝って欲しいというので、自分が率先して遺体を持ち、救急車の所まで搬送した。それが、いけなかったのだろうか?
 遺体運搬の手伝いをした!!……母も私もビックリでした。母親は「とにかくお払いに行こう」と言い出し、そのまま父親の車で成田山にお参りに行くことに。その後、我が家に何も起こりませんでしたが、母親が見たものは夢だったのか幻覚だったのか……今でもわかりません。

火の玉の思い出
 それは、私が中学3年生の10月末の夜のことでした。その日は、裏の家でお葬式があった日でした。時間は午後8時50分くらい。当時、私の勉強部屋は家の2階にあり、受験勉強で疲れた私は、一休みしようと思い、部屋の窓を開けて深呼吸しました。すると……目の前に飛び込んできたのは火の玉。自宅の1階の屋根の上、3メートルぐらいのところを裏の家の方角に向かって飛んでいました。火の玉といっても、物理学者が作り出したものや時代劇で見るものとは、まったく似て非なるものでした。大きさは、バレーボールぐらい。まるでバレーボールにガソリンを撒いて、それに火をつけたような感じです。飛び方も直線ではなく、ジェットコースターのような軌跡を描きました。しかも登るときはゆっくりで、下るときは勢いがついてスピードがあり、ハレー彗星のように火の尾を引きます。そんな上り下りを5回ほど繰り返すと、火の玉は突然目の前から消えました。
 目撃した瞬間は唖然呆然状態でしたが、パッと消えた瞬間、ソゾクゾクッと背中に寒気が走ったのを覚えています。私は驚いて、2階の階段を駆け下りて1階に行きました。すると母親がやはり驚いた顔で、トイレから出てくるではありませんか。母親は、トイレの小窓から火の玉を見た、と言いました。目撃者は2人だけかと思っていましたが、翌日のこと。仕事帰りの男性が同じ時間に我が家の前を通り過ぎた際、家の屋根の上を「火の玉が通っていった」と母親に言って帰ったとのことでした。あの情景は、今でもはっきりと脳裏に焼きついています。ただ残念なのは、目撃したのは一度きりで、死ぬ前にもう一度見てみたいと思っています。

ハワイのお土産品
 これは、私が高校時代のお話です。近所の人からハワイ旅行のお土産にと花瓶のようなものを貰いました。高さが20センチほどで、ハワイアン風の模様が散りばれられた花瓶のような入れ物です。私は、勉強部屋の棚の上にそれを置いておきましたが、毎晩11時を過ぎると花瓶の中から音がします。音は、仏壇のリンを叩いたように「チーン」といったような音でかならず1回だけ鳴ります。不思議なのは、毎晩11時から11時10分の間に音を出すことです。ただ私にとってそれほど気味の悪いものではなかったので、そのままにしておきました。
 ある日のこと、近所に住む1年後輩のトシユキ君が家に遊びに来ました。そして、花瓶をしげしげと眺めています。私が「欲しければあげるよ」と言いましたところ、彼はそれを貰っていきました。事件は、それからしばらくして起こりました。彼が運転していたオートバイが電信柱に激突し、意識不明の重体となり、浜野病院に入院したとの知らせを受けました。幸い3日後に意識を取り戻して助かりましたが、事故の原因は花瓶にあったかどうかは分かりません。しかし、それ以来、気安く人に物をあげるのは注意するようになりました。

髪の毛が伸びる人形
 これは、私が大学時代のお話です。8月のお盆の日、父親の実家がある九十九里のお寺で施餓鬼供養をするというので、父と一緒に出かけていきました。昔は、お盆の日にはお寺に集まった人たちに地獄絵図を見せ、悪いことをしてはいけないといった教訓話をご住職がすることがよく行なわれていたようです。地獄絵は出てきませんでしたが、最後にご住職である尼さんが持ってきたのは、一体の人形でした。
 「最近テレビなどで髪の毛が伸びる人形が話題になっていますが、別に不思議なことではありません。このお寺にも似たような人形があります」。そう言って手にしていた人形を見せました。確かに髪の毛の長さが不ぞろいで、長いものは腰の方まで毛が伸びています。「テレビに出したらどうですか、という人もいますが、人形は見世物ではありません。何らかの形で供養して欲しいと訴えているのでしょうから、テレビに出さずこうして大切に供養しているのです」
 私もテレビでは髪の毛が伸びる人形(北海道のお菊ちゃん人形)を見ていましたが、こうして目の前で人形を見たのは初めてでした。物理学的に髪の毛は伸びるのか、あるいは超常現象なのかは分かりません。しかし、ご住職が大切にしている人形であることだけは十分心に伝わり、思い出深い施餓鬼供養となりました。

幽霊の体温
 幽霊が近づくと、背中がゾクッと寒気を感じる。そんな常識を打ち破ったのが、友人のヤマザキ君でした。ある日、彼は「僕は昔、幽霊をバイクで轢いたことがある」と言い出しました。回りの人は、びっくり仰天です。何でも「夜、バイクで走っていたら、前方に半透明な女の人が立っていて、あわててブレーキを踏んだがすでに遅く、幽霊の体を通過してしまった。その時、生暖かい空気の中を通り過ぎた」というのです。
 果たして幽霊の体は、寒いのか生暖かいのか?
 そんな議論を仲間同士でやっていた9月のとある日。私は、家族と成田山にお参りに出かけました。本堂の前を通り過ぎようとした時、突然、誰かが私のお尻を触りました。思わず後ろを振り返りましたが、誰もいません。まるでカイロをお尻に当てられたような生暖かい感触でした。不思議なことがあるものだと思いながらも、それから1週間が過ぎようとしていた日のこと。法事で出向いたお寺に行くと、お坊さんから「あなた、何かかぶったね」と聞かれました。私が成田山での体験を話すと、僧侶は手にしていた経本で私の背中を何度も叩き、ノーマクサンマンダーと呪文を唱えました。「やっと出て行きました。男の霊でしたよ」、と僧侶は言いました。それにしても私のお尻を触るとは……きっと変態の幽霊だったのでしょう。

タクシーでの思い出
 若い頃は、友達の家にみんなで集まり、ホラー映画のビデオを鑑賞したり、恐怖の体験談を語り合ったりして夜を過ごした思い出が、今では懐かしい限りです。
 体験談が豊富な人、職業的には看護士さんとかタクシーの運転士さんでしょうか?
 蒸し暑いある夏の夜、我孫子駅までタクシーに乗ったことがありました。沼が見えるという場所まで来た時のこと。運転士さんが突然「私は、この場所で不思議なお客さんを乗せた経験がある」と言い出しました。「赤ん坊を抱いた女の人でね。車を止めると、子供が熱を出したので町中の病院まで連れて行ってほしい、と言う。こんな夜更けに、おかしいとは思いながらも車に乗せてしまった」「ようやく病院にたどり着き、車を止めて後ろを振り返ると女の人も赤ん坊もいなかったんだよ」。
 「途中で降りてしまったってことはないですか?」、私が聞くと、「そんなことは、ないな。よく幽霊が座った後のシートを見ると濡れているって話を聞くので、見てみたんだ」。「濡れていたんですか?」。「いや……しかし不思議なのは、赤ん坊の白い靴下が一足、お客さん、あなたが座っている場所に靴下が一足だけ置いてあったんだ」。「えっ!!」。私は、全身から震えがくるような寒気を感じました。
 「結局、靴下は警察に落とし物として届けたけどね」。「何だったんですかね?」。「その1週間ほど前、沼で自殺をした若い女性がいたと言う話を警察から聞いたよ。育児ノイローゼだったらしく、赤ん坊を抱いて入水自殺をしたそうだよ。かわいそうでね。翌日、花束と線香を持って手を合わせに行ったよ」。
 あるんですね、夏の夜の怪談話。それにしても子供を幸せにするのも不幸にするのも、すべて親次第なんだ……そんなことを考えさせられた出来事……でした。

人身事故
 電車に乗っていると「人身事故が発生しました」というアナウンスをたまに耳にします。しかし、自分が乗っている電車に飛込みがあった経験は数少ないでしょう。私は、7回ほど経験しました。これを話すと「多すぎるのでは」とよく言われます。初めて経験したのは、18歳の時。大学受験から帰る途中、JR西船橋駅で遭遇。京成電車に乗り換えて帰宅しましたが、案の定、その日受けた大学は不合格でした。西船橋は縁起が悪い……そう思いながらも、その後西船に20年近くも住むとは夢にも思いませんでした……が。
 一番大変だったのは、西船から地下鉄東西線の快速電車に乗った時。行徳駅のホームから、男の人(翌日の新聞に50代の男性と載っていました)が飛び込みました。駅からかなり走って電車はストップ。私たち乗客は、線路の上を歩いて行徳駅まで戻ることになりました。
 後方の車掌室まで歩いていくと、電車のフロントから小さなドアが開きます。そこに簡易性のはしごがかけられ、はしごを降りて線路上に出ました。しかし、目に飛び込んできたのは、細かな肉片と血の塊、そして引きちぎられたシャツの切れ端。目を覆いたくなるような情景でしたが、どうにか駅のホームにたどり着きました。その日は、夜間部の授業の仕事でしたが、学校に電話を入れて休講にしてもらいました。1時間後に電車は、再開しました。
 その間、喫茶店で時間を過ごしましたが、私は亡くなられたご家族の心境を思うと居たたまれませんでした。バラバラになったご遺体、ご家族にそのような姿を見せること自体、酷ではありませんか。本人はそれで良いかもしれませんが、残された者はたまったものではありません。どうか、家族のことを考え、今一度考え直して欲しいと思います。実際の現場を見た者だけが知り得る率直な意見です。
 また「死ねばすべての苦しみから解放される」と言いますが、本当にそうでしょうか。死んで土に返るのであれば、そうかもしれません。しかし、もしもあの世というものが存在したなら……借金などの経済的な苦しみ、痛みなどの身体的苦しみからは解放されても、心の苦しみは続きます。魂は生き続けているわけですから……。今日出来ることを明日に伸ばすな。そして、この世の課題をあの世に持ち越すな。そんな気持ちで生きていって欲しいと願っています。

生きるも偶然、死ぬも偶然
 私が子供の頃に父親からよく聞かされたのは、戦争体験の話です。第2次世界大戦の時、父親は陸軍戦車隊の兵士として満州に出兵しました。昭和20年8月15日の1週間前、突如ソ連が宣戦布告したため、父が所属する戦車部隊に出兵命令が下ったそうです。酒などは一切なかったので、別れの水盃をかわして出撃しました。しかし、途中で戦車が故障。修理をして出動しましたが、ソ満国境の川まで来ると今度は橋が崩落している。歩兵部隊は川を渡って進んでいったが、戦車隊は渡れない。そこで橋を修理していたが、そうこうしている間に戦争が終わっていた。戦車の故障と橋の崩落。2つの偶然が重なって命こそ助かったが、生きるも死ぬも紙一重だという話を良くしていました。
 私は若い頃、カウンセラーだけでは生活出来ず、マーケティング会社の研究員をしていた時期がありました。通産省の外郭団体の仕事を引き受けたりして、通産省の方と知り合いになり、そのご縁で神戸にある某大学の助教授にならないか、という話を頂きました。生活が苦しかった私としては、大変光栄な就職話でしたが、千葉に住んでいる両親が二人ともC型肝炎を患っていたこともあり、将来親の面倒のことを考えると神戸まで行くことを躊躇い、お断りいたしました。それから2年後、神戸で大震災があり、私の代わりに行かれた方が亡くなられたとの話を聞きました。もし私が神戸に行っていたらどうなっていたのかは、わかりません。しかし、流れとしてAではなくBになったのであれば、流れに逆らわず従った方が結果的に良いことがある。そういう思いをいつも持っています。
 地下鉄サリン事件の当日も、築地に行く予定がありましたが、インフルエンザにかかり高熱でダウン。結果的に事件に遭遇せずに助かりました。地下鉄日比谷線脱線事故では、1日前の2000年3月7日に同じ電車に乗っていました。その日は取引先の会社のN部長さんと学芸大学駅で、朝9時15分に待ち合わせをしました。西船橋から東西線に乗り、茅場町で日比谷線に乗り換えました。日比谷線のホームに着くとすでに電車が到着していたため、一番後ろの車両に飛び乗りました。恵比寿駅で席が空いたため、席に腰をかけて時計を見るとちょうど9時でした。脱線事故は、翌日の同じ電車のしかも一番後ろの車両が脱線し、死傷者が出た事故です。
 事故の事実を知ったのは、翌3月8日の昼頃です。その日は沼袋駅近くの中華料理屋で昼食にチャーハンを食べていました。店にはテレビが一台あり、ニュース番組で脱線事故のことが報道されています。そして、よくよく考えてみたら1日前に同じ電車の同じ車両に乗っていたことに気づいて、その瞬間全身に震えがき、口にしていたチャーハンを喉に詰まらせてむせ返りました。帰る途中、氷川神社の前を過ぎましたが、思わず鳥居の前で手を合わせていました……。
 これらのことは、単なる偶然かもしれません。しかし、不幸にして亡くなられた方も、その場に偶然居合わせて、尊い命を亡くされたわけです。今生きていることに感謝するとともに、亡くなられた方々のご冥福を祈りたいと思います。

最期のプレゼント
 家族の突然の死ほど、辛いものはありません。私の母は、長年C型肝炎を患っていましたが、肝炎に由来すると思われる食道静脈瘤の破裂で急死しました。母が亡くなる2ヶ月前のことです。私は母親と一緒に千葉そごうで昼食を取りました。この時、母は「何か欲しいものがあるか」と聞きましたので、私は「靴が古いので、新しい靴が欲しい」と言いました。母は「買ってあげる」と言いましたが、私は「今日は時間がないので、別の日にするよ」と言って別れました。この時点では、母親はとても元気で、それから2ヵ月後に急逝するとはとても想像できませんでした……。
 突然の死でしたので、あわただしいままお通夜の日を迎えました。葬儀場に向かうため、私は玄関で黒い革靴を履こうとしましたが、革がよれよれで「これはまずい」と思いました。そうは言っても、お坊さんとの事前打ち合わせもあり、ゆっくりと靴を買っている暇はありません。京成電車の中で、「どうしたら素早く靴を買うことが出来るか」をずっと考えていました。私の頭に浮かんだのは、京成千葉駅で下車し、駅前にある千葉そごうで靴を急いで買うことでした。そして、電車が千葉駅に到着するや否や、千葉そごうの靴売り場に直行。売り場に入るなり、目に飛び込んできたのは「23800円が、ちょうどの2万円」というポップでした。私に合うサイズを選び、その靴の履き心地を確かめるや「これを下さい」と店員に言い、さらにその場で買った靴に履き替えました。わずか10分足らずの買い物でした。
 再びやってきた電車に飛び乗った私は、ふと2ヶ月前の母親との会話を思い出しました。「なぁんだ、靴を買ってくれると言ったのに、結局自分で買ってしまったのか……」
 それは、葬儀も無事に済み、実家で母親の遺品を整理していた時のことです。母親がいつも愛用していたジャケットのポケットから1万円札が2枚出てきました。出てきた現金はこれのみでしたが、考えてみればこの2万円は靴の代金と同じ金額だったのです。偶然の一致かもしれませんが、私にとっては母親からの最期のプレゼントとなりました。

葬儀場の一夜
 母親の死からわずか1年半後、父親も亡くなりました。父も母と同じC型肝炎を長年患い、すでに末期の肝硬変になっていました。母の死後は、施設に入っていました。インフルエンザの予防接種の承諾書が施設から来ましたが、末期の肝硬変で白血球数も少なかったので、私は予防接種を一旦拒否しました。しかし、「糸日谷さんだけ受けないわけにはいかない」という職員の説得で承諾。案の定、注射したその晩から熱が出たとのこと。大した熱ではないと思いながらも、それから4日後に亡くなりました。死因は、急性肺炎でした。
 亡くなる日の明け方だったでしょうか。私は父親の「起きろ」という声で目が覚めました。目を開けましたが、もちろん周りには誰もいません。再び寝入ったところにまたしても「起きろ」という声がして、目が覚めました。その日の朝、父は施設内で亡くなっていました。
 母親のお通夜の日の朝は、8時15分に家の玄関のチャイムが鳴りました。妻が出てみましたが、誰もいませんでした。父親のお通夜の日の朝は、8時15分が過ぎても家のチャイムはなりませんでした。「父親は寝坊助だから、遅くなるかな?」……私がそう思っていると、10時15分に家の玄関のチャイムが鳴りました。同じように妻が出てみましたが、誰もいませんでした。10時15分というのは、父親が搬送先の病院で「死亡確認」がされた時間でもありました。
 お通夜の晩は、家族4人で葬儀場に泊りました。私は、葬儀の準備で忙しかったためか疲れており、すぐに眠ってしまったようです。その夜のこと。突然、6歳の娘の叫び声で目が覚めました。何でも怖いものを見た……とのことで大騒ぎをしています。何とか娘をなだめさせて、やっとのことで朝を迎えました。しかし、怖い体験をしたのは娘だけではありませんでした。11歳の息子は「黒い人影を見た」と言うし、妻は「誰もいないのに、部屋の奥から音が聞こえた」と言っています。
 私は……というと、葬儀の方が気がかり。「無事に滞りなく進行するだろうか」「ご多忙の折りしも、親戚は来てくれるだろうか」……など、意識はお化けどころではありませんでした。
 葬儀は、何事もなく終わりましたが、今でも子供たちに言われます。「葬儀場には、二度と泊まりたくない」……と。

夢とデジャヴュと泣ける歌
 子供の頃から、同じ夢を何度も見ました。まるで数百年前の時代にタイムスリップしたような夢を……。
夢のストーリーは、決まって次のようなものでした。
 10代の私は、藩の師範になるために、殿様からある地方の学校で勉強してくるようにと命令されます。その学校には、全国から多くの学生が集まり、下宿しながらいろいろな知識を学んでいました。近くの畑で野菜を育てたり、薬草園で薬草を育てて、医学の勉強もしました。友人と近くの川で泳いだり、楽しい時間を過ごしました。そして、一人の少女との出会い。二人は、近くの神社で将来のことを祈りました。何度も何度も祈りました。私はこの町に残るために、武士の身分を捨て、寺子屋の先生や町医者として生きていこうと決心します。だが、その夢はかないませんでした。やがて私は殿様の命令で、国元に帰ることに……。別れの日、橋のたもとで泣いていた彼女。それが、二人の永遠の別れとなってしまいました……。
 時は流れ、今から20年近く前のことです。ある歌手が歌う曲が、ヒットしました。私は、なぜかその曲を聴くたびに涙が止まりません。歌詞の中に出てくる川や橋、そして神社。いずれも架空の地名と思っていました。しかし……。
 ある旅の番組をテレビで見ていた時のこと。テレビに出てくる情景が、妙に懐かしく、見覚えがあるように思えて仕方ありません。川や山の形、なんと学校跡、神社まで存在しました。そして……神社の名前……驚いたのは、歌詞の中に出てくる神社と同じ名前。ひょっとして、あの曲に出てくる地名は、実在したの?
 歌詞の中に出てくる川、橋、神社(近くにもっと大きな神社、しかも縁結びの神社があるようですが、夢の中には出てきません。なぜ?)、床屋(これは夢にも出てきません)……これまで点でしかなったものが、1本の線でつながれたような……そんな瞬間でした。
 単なる夢なのか、それとも遠い遠い過去の記憶? 今でも森高千里の……あの曲を聴くたびに、私の涙が止まらない!!

妖怪はいるのか?
 それは、私が小学5年の時だった。千葉で「妖怪百物語」という映画が上映されることになり、私は父に頼んで連れて行ってもらった。……とはいっても、父親の仕事が終わってからのことで、映画館に着いたのは夜の6時を過ぎていた。
 映画は、置いてけぼりの話から始まり、ろくろ首や唐傘のお化けなどが登場し、怖いというよりも楽しい映画であった。またルーキー新一のバカ息子の演技が、素晴らしかった。
 映画館を出たのは、夜の9時近くだったろうか。車を止めた駐車場まで行く途中で、向こうから腰の曲がったお爺さんが歩いてくるのが目に止まった。よく見ると、背中に蓑のようなものを背負っている。私は一瞬、映画の中に入り込み、油すましにでも出会ったような感覚を覚えて立ち止まった。その老人は、何事もなく、私たちの横を通り過ぎる……はずだった。ところが……後ろを振り返ると、パッと姿は消えていた。
 父親が言った。「今、おじいさんが歩いてきたよね」。私は「うん」と答えた。「でも、いないね」。父親は、立ち止まりながら言った。「気のせいか。早く帰ろう」。父親は,そう言って速足で歩き出して駐車場に入っていった。
 それは……人霊だったのか、それとも自然霊だったのか。きっと妖怪がいたずら心で、映画の続きを見せてくれたのだろうと思っている。

美鈴著『あの世のひみつ』(徳間書店)p176〜177より
この世とあの世では、あべこべなことだらけです。
この世では、お金を持っている人や出世した人が偉いとされますが、あの世には財産や地位は持っていけません。あの世で羨望を集めるのは、苦難や苦労の中で一生懸命生きた人。この世では「お気の毒に」と言われかねない人です。
反対に、何の苦労もなくすいすいと世渡りしている人は、あの世では「楽をするために生まれ変わったわけではないのに。ちゃんと学べるのだろうか」と心配されています。
お葬式では、死を悼んで涙を流します。でも、あの世では「お帰りなさい、無事に戻れたね」と笑顔で迎えられます。
命の誕生は、この世では大きな喜びとされていますが、あの世では「大変な宿命をちゃんと果たせるのだろうか」と不安な声に見送られます。
結婚や出産は、大きな学びをもたらします。それは学びのスピードが速いからです。
この世でもあの世でも、結婚や出産はどちらもおめでたいことです。なぜおめでたいのか、理由は正反対です。あの世では、結婚して苦労ができるから、おめでたいと考えるのです。
出産も同じです。子どもが思ったように育ってくれない、反抗するなどの苦労も出てくるでしょう。そこに大きな学びがあるから、あの世でも祝福されるのです。

追伸
相変わらず自殺者が後を絶ちません。それは、とても残念なことです。自殺をすれば、すべての苦しみから解放される?……本当なのでしょうか。もしもあの世というものが存在するのであれば、借金などの経済的な苦しみ、病苦や身体の苦しみからは解放されます。しかし、魂が永遠であるとするならば、心の苦しみは死後も生き続けることとなるでしょう。
それでは、何の解決にもなりません。「今日出来ることは、明日に伸ばすな」という諺があるように、この世での悩みをあの世に持っていっても仕方ありません。この世で解決できる努力を惜しまず、解決に全力を尽くし、旅立つ時は満面の笑みを浮かべて故郷へと戻りたい。親の死に目に会う意味は、満面の笑みを浮かべて亡くなったのか、それとも苦しい表情で亡くなったのか、それを確認する必要があるからだと私は思います。
私の体験は、夢物語なのかもしれません。しかし、100パーセント幻覚だと言い切ることが出来るでしょうか。「死ねば土に帰るだけだよ」と本当に確信が持てるならば、自殺はすべての苦しみからの解放かも知れませんが……私は、疑問に思います。

人間の脳は、大変複雑に出来ています。右脳と左脳の働きの違いだって、正直言うと未だ仮説の領域に過ぎません。統合失調症にかかると幻覚が起こりますが、どのようなメカニズムで発生しているかについても解明されていません。ドーパミンやグルタミン酸の介入も未だ仮説の段階です。まして普通の精神状態の人間が、心霊スポットで幽霊を見たことを「脳内に起こった幻覚」として科学的に解明することは、まだ不可能なのです。つまり、現代の脳科学の分野は、まだまだ未知の科学なのです。「心霊現象は、脳科学の常識に反する」と主張する方がいらっしゃいますが、脳科学自体未知の科学なので、科学的に解明することが不可能といった方が正しいのです。

私が自殺に反対する一番の理由……それは、「人は、死ねば土に帰る」という考えに確信が持てないからです。私は、大変な難産でこの世に生まれてきました。生まれた時は仮死状態で、ほぼ助からないと思われていたようです。しかし、病院の迅速な応急処置で奇跡的に助かりました。今までの人生を振り返ってみても、山あり谷ありでけっして順調な人生ではありませんでした。しかし、私は「この世に生まれてきた意味が、人それぞれにある」ような気がしてなりません。哲学者サルトルは「実存は本質に先立つ」と主張しましたが、それは逆であって「本質が実存に先立つ」というのが正しいのではないかと思います。
人生は、金太郎飴ではありません。今は苦しくても、明るい未来が待っているかもしれないのです。与えられた命を大切にし、ゆっくりでもいいから一緒に人生を歩んでみませんか。

昔、国道14号線で悲しい事故がありました。
学校に通学途中の小学校1年生の男の子が、道路を横切る際、トラックに轢かれて亡くなりました。黒いランドセルからは、ノートや教科書、鉛筆などが当たり一面に飛び散っていました。
それから1年後の命日の朝、男の子のお母さんが同じ場所で飛び込み自殺を図りました。しかし、走ってきたトラックは目の前で停車。慌ててドアから飛び出してきた運転手が叫んだのは、「男の子は、無事か!!」
運転手が見たものは、黄色い帽子をかぶり、ランドセルを背負った男の子が道路の真ん中でトラックの方を向いて立ちすくんでいる姿でした。
そして、傍を歩いていた人が聞いた言葉は……「ママ、死なないで!!」……という子供の叫び声だったそうです。

「お迎え」体験の聞き取り調査
東北大医学部・岡部健教授らを中心とする在宅診療を行っている医師や大学研究者らは、2011年、宮城県5か所と福島県1か所の診療所による訪問診療などで家族をみとった遺族1191人にアンケート調査を実施しました。
調査内容は、「患者が、他人には見えない人の存在や風景について語った。あるいは見えている、聞こえている、感じているようだった」かを尋ねたもので、回答者541人のうち226人(42%)が「経験した」と答えました。
患者が見聞きしたと語った内容としては、親など「すでに死去していた人物」(51%)が最も多く、またその場にいないはずの人や仏、光などの答えもありました。
「お迎え」を体験した後、患者は死に対する不安が和らぐように見える場合が多く、本人にとって「良かった」との肯定的評価が47%と、否定的評価19%を上回ったそうです。
なお調査は、文部科学省の研究助成金を得て実施。「お迎え」体験は経験的にはよく語られますが、学術的な報告は極めて珍しいと言えるでしょう。


東日本大震災で、約4000人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市。震災翌日から、阿部美津夫さん(62)は毎日、写真を撮り続けています。建設業を営んでいましたが、娘と2人の孫を亡くし、新しい生活に踏み出す気力が持てない中、それでも「震災の記憶を風化させてはいけない」との思いでカメラのシャッターを切っています。
津波に流された市街地を一望出来る日和山公園。がれきの大半は、すでに仮置き場に移されています。「何もねーじゃん」……と、広がる更地を見て笑う見学者も少なくないという。そんな中、阿部さんは「家や車は金を出せば戻ってくるけれど、身内は戻らないんです」と……若者たちに語りかけています。
震災があった日、阿部さんが自宅から持ち出せたのは、20年来の趣味で愛用していた3台のカメラだけ。奥さんと高台に逃げましたが、娘の友紀さん(37)は長男(10)と長女(9)を小学校に迎えに行ったまま戻ってきませんでした。呆然とがれきの街を捜し歩き、ふと気づくと無意識のうちにカメラのシャッターを切っていました。
3日後、自宅近くに流れ着いた車の中から3人を発見しました。一人ずつ道路に寝かせ、声を上げて泣いたそうです。「3人の年を足しても、俺に届かない。なぜこんなに早く逝かなきゃならなかったのか」。気が付けば、頭に死がよぎり、最期の死に場所を求めて車を走らせていました。そんな折、なぜかひな人形の展示会に立ち寄りました。人形の愛らしい表情が孫と重なり、「3人の分まで生きなければ」と思い、自殺を思いとどまったそうです。
妻子を捜す夫の背中、火災で黒焦げになった学校、ガソリンを求める被災者の列……。カメラは震災直後から、数々の場面を収めています。仮設住宅にも入り、がれき撤去のアルバイトを始めました。しかし、子供用のおもちゃやスプーンを拾うたび、孫の顔を思い出す。涙がこぼれて……、仕事にならなかったそうです。
「過去も現在も未来も、全て津波に流されました。この事実を忘れないでほしい」。阿部さんは、今日も震災の記憶を風化させないためにカメラのシャッターを切り続けています。

とある老人ホームの一部屋に、そのおばあちゃんは住んでいました。夫と一人息子に先立たれ、今は独りぼっち。人生の最後に辿り着いたのが、この老人ホームでした。
四畳半一間の部屋の窓からは、雑木林の向こうのお寺の屋根が見えました。おばあちゃんは、毎朝、お寺の方角に向かって手を合わせていました。ある日、「なぜ手を合わせているのか」と職員が聞いたところ、おばあちゃんは次のように答えました。
「世間のお荷物になってしまったから、早くお迎えが来てほしいと神様に祈っているんです」
それを聞いた職員は、目頭が熱くなりました。子供の頃に戦争体験をし、戦後の日本を支えて一生懸命生きてきたというのに……。自分のことを”世間のお荷物”と表現した、その謙虚な姿勢に思わず頭を下げてしまったそうです。
それから半年が過ぎ、秋風が吹く頃、おばあちゃんは亡くなりました。身内は誰も葬儀には来なかったけれど、老人ホームの沢山の友達と職員に見守られ、あの世へと旅立っていったそうです。


自殺は絶対ダメです!!
内閣府が行った「自殺対策に関する意識調査」の結果が、発表されました。これによると、自殺を考えた経験がある人は全体で23・4%。年代別では20歳代の28・4%が最も多く、40歳代の27・3%、50歳代の25・7%、30歳代の25・0%と続きました。特に20歳代女性は33・6%と、3人に1人が自殺を考えたことがあると回答しました。
私は、少しでも自殺者を減らしたいと思い、大学・大学院では心理学を専攻しました。今から30年以上も前のこと。「日本もアメリカのように心の病が増加するので、カウンセラーは国家資格になる」……そのことを信じて心理カウンセラーになりました。しかし、国家資格取得でメシが食えるどころか、「30年経った今でも国家資格になっていない」「相談料でメシが食えるのは、弁護士と占い師だけ」という風潮は未だ変わらず、生活の厳しい日々が続きました。大学の研究室仲間がカウンセラーをあきらめていく中、私は最後までカウンセラーという職業にこだわり続けました。
その理由は……忘れられない幼少期の思い出から……でした。心理学なんか専攻せず、医学部に進んでいれば今のようにお金の苦労なんかしなかったのにね(笑)……。親戚からは、今でもそんなことを言われたりしますが、どうしても忘れられない思い出があるのです。
幼稚園生の頃、京成電車の踏切の近くに住んでいて、そこで自殺した女性が「自分が死んだこと」を自覚できず、何度も電車に飛び込む姿を目撃しました。母親にそのことを話すと、母親は私を厳しく叱りつけ、「そのことは絶対、人に言ってはいけないよ」と諭されました。おそらく霊感の強かった母親にも同様の経験があったからだと思います。「近所のおばあちゃんの体が真っ黒に見える。もうすぐ死ぬかもしれない」……そんなことを言っては、土蔵のようなところに閉じ込められた……そんな子供の頃の話を母親から聞かされたことがあります。当時は、精神病者のような扱いだったのかもしれません。
人は死んでも魂はなくならず、心の苦しみは続く。自殺した人は後悔の念だけがますます募り、成仏出来ないのではないかと思いました……。私がカウンセラーを目指した理由は、そんな幼少期の体験からでした。
生きていれば、辛いことは山ほどあります。しかし……間違っても、自殺だけはしないで下さい。この世という泥の中でもがき苦しみながらも、いつかきっとハスの花のように水面上で美しい花を咲かせることを夢に見て、一緒に頑張ってみませんか。人生、辛いことばかりがすべてではありません。ゆっくりと休みながら、そして一歩ずつでも歩んでいきませんか。

とっても悲しいことですが、中学生の自殺が後を絶ちません。学校でのいじめを苦にした自殺にしても、本来守ってあげるべき大人たちが職務怠慢や事勿れ主義で、未来のある若者を自殺に追い込んでいます。このようなことが二度と起こらないよう、大津の事件をきっかけにいじめ対策に取り組んで欲しいと願っています。
そんな矢先、茨城県取手市のマンションの敷地内で、中学2年の男子生徒が倒れているのが見つかり、死亡が確認されました。警察が現場に駆けつけると、このマンションの13階に住む中学2年の男子生徒(13)が腕から血を流して仰向けに倒れていて、搬送先の病院で死亡が確認されたそうです。自宅からは、少年が両親に宛てたとみられる「仲のいい夫婦でいてください」と書かれたメモが見つかりました。
彼の両親にどのような諍いがあったのか分かりませんが、本来子供を守るべき親が少年の心に悲しみの原因を作ってしまったこと……。我々大人たちは、もっともっと若者の心に寄り添うような努力をしなくてはいけないことを強く感じました。
最後に自殺で亡くなられた多くの若者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


もしこの世とあの世とがメビウスの帯のようにつながった存在であったなら、人はどのように生きたらよいのでしょうか?
そのヒントを与えてくれる本があります。美鈴著『あの世を味方につける生き方』(扶桑社)。2010年8月に出版された本ですが、その中に「日本に大きな地震が来るのも時間の問題と騒がれています」……といった気になる文章を見つけました。 


▲up
 
 


Powered by Itohiya Academy of Natural Health ©2005-2006 Itohiya Academy of Natural Health Project