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糸日谷 秀幸(いとひや ひでゆき)青春プレイバック写真


 大変な難産の末、仮死状態で生まれましたが、その後は何事もなく順調に育ちました。東金市家徳の生家にて。当時はベビーカーではなく、乳母車でした。

 











 動物が大好きだった幼少時代。飼っていた愛犬との写真。その後、東金市から千葉市登戸のアパートに引っ越すことに。アパートでは犬が飼えないため、やがて悲しい別れがやってくることも知らなかった頃。

 











 5歳の時、熱海に旅行に行った時の写真。数少ない家族旅行の1ページ。











 6歳の時、千葉市若葉区の団地に引っ越した頃の写真。引越しの記念ということで、なぜか七五三の衣装を着てカメラに写りました。まだカラー写真が出始めの頃で、色合いがいま一つ。











 小学5年生の時、友達の自宅前で撮った写真。向かって左が私。

 











 小学校の卒業式の日。向かって左から2番目が私。後ろにいる母親より背が高くなりました。一番左側は、担任の西村正司先生。












 中学3年生の修学旅行での写真。伊豆での昼食風景。田舎の中学で剣道部員だった私は……坊主頭でした。













 青年老い易く、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず。それに気づくのが、遅すぎました。後悔先に立たず……嗚呼。





 慶応の学位授与式当日。三田校舎前にて撮影。学生時代は、今よりもさらにメタボでした……。向かって右側は、恩師の斎藤教授。














 30歳の頃。夢だけはありましたが、大学、短大、専門学校の他、民間の研究所を渡り歩く、渡り鳥人生でした。











 30代半ば。貧乏学者生活は相変わらずで、結婚もままならずの独身時代。植草学園(千葉市)職員室前にて撮影。




 
 

 

糸日谷家の系譜
 糸日谷という名字は、千葉県大網白里市白里海岸地区に多く存在する。近くには、サンライズ九十九里という国民宿舎があり、また『智恵子抄』で知られる高村智恵子が一時期住んでいたことがある。
本人……千葉県東金市家徳出身。昭和31年、県立東金病院にて誕生。3歳半の時、千葉市登戸の公務員宿舎(2階建てのおんぼろアパート)に引っ越しをする。その後、千葉市若葉区の団地で青春時代を過ごす。
父親……大正14年、千葉県山武郡大網白里町北今泉(現.大網白里市)に生まれる。慶応大学予科生の時、学徒出陣で出征。陸軍戦車隊の通信兵として、満州で終戦まで過ごす。戦後は、ソ連軍によりシベリアに抑留。昭和22年に帰国。帰国後は、国家公務員として就職する。
祖父……在村地主。27歳の時に日露戦争が勃発。近衛師団に入隊し、皇居の警備兵を務める。晩年は、大網白里町の助役として町政に携わる。
曽祖父……在村地主。宮大工としても活躍し、数多くの仏像を彫っている。髪型はちょんまげで、毎朝先祖伝来の日本刀を磨くのが日課だったという。

あとがき

 ある日、ソクラテスは弟子のプラトンから「人生最大の誤算は何か?」と聞かれ、「クサンティッペ(悪妻で有名)との結婚」と答えたそうな。私もたまに「人生最大の誤算は何か?」……と聞かれることがある。答えは、いつも決まっている。それは……40年以上経った今でも、カウンセラーが国家資格になっていないことだ。経済的貧困の最大要因は、これに尽きるだろう。「相談料でメシが食えるのは、弁護士と占い師だけ」という言葉は、40年以上昔のままだ。
 しかし、私は「自分は幸運だった」と思っている。その理由は、
1、五体満足の身体で生まれてきたこと
2、日本という経済的に豊かな国に生まれたこと
3、戦争のない時代に生きていること
4、まともな家庭に生まれ育ったこと
 これ以上、一体何を望めというのだろう。当たり前のことを当たり前のように感謝する。そのことを忘れないように心がけて生きています。  

生きるも偶然、死ぬも偶然
 私が子供の頃に父親からよく聞かされたのは、戦争体験の話です。第2次世界大戦の時、父親は陸軍戦車隊の兵士として満州に出兵しました。昭和20年8月15日の1週間前、突如ソ連が宣戦布告したため、父が所属する戦車部隊に出兵命令が下ったそうです。酒などは一切なかったので、別れの水盃をかわして出撃しました。しかし、途中で戦車が故障。修理をして出動しましたが、ソ満国境の川まで来ると今度は橋が崩落している。歩兵部隊は川を渡って進んでいったが、戦車隊は渡れない。そこで橋を修理していたが、そうこうしている間に戦争が終わっていた。戦車の故障と橋の崩落。2つの偶然が重なって命こそ助かったが、生きるも死ぬも紙一重だという話を良くしていました。
 私は若い頃、カウンセラーだけでは生活出来ず、マーケティング会社の研究員をしていた時期がありました。通産省の外郭団体の仕事を引き受けたりして、通産省の方と知り合いになり、そのご縁で神戸にある某大学の助教授にならないか、という話を頂きました。生活が苦しかった私としては、大変光栄な就職話でしたが、千葉に住んでいる両親が二人ともC型肝炎を患っていたこともあり、将来親の面倒のことを考えると神戸まで行くことを躊躇い、お断りいたしました。それから2年後、神戸で大震災があり、私の代わりに行かれた方が亡くなられたとの話を聞きました。もし私が神戸に行っていたらどうなっていたのかは、わかりません。しかし、流れとしてAではなくBになったのであれば、流れに逆らわず従った方が結果的に良いことがある。そういう思いをいつも持っています。
 地下鉄サリン事件の当日も、築地に行く予定がありましたが、インフルエンザにかかり高熱でダウン。結果的に事件に遭遇せずに助かりました。地下鉄日比谷線脱線事故では、1日前の2000年3月7日に同じ電車に乗っていました。その日は取引先の会社のN部長さんと学芸大学駅で、朝9時15分に待ち合わせをしました。西船橋から東西線に乗り、茅場町で日比谷線に乗り換えました。日比谷線のホームに着くとすでに電車が到着していたため、一番後ろの車両に飛び乗りました。恵比寿駅で席が空いたため、席に腰をかけて時計を見るとちょうど9時でした。脱線事故は、翌日の同じ電車のしかも一番後ろの車両が脱線し、死傷者が出た事故です。
 事故の事実を知ったのは、翌3月8日の昼頃です。その日は沼袋駅近くの中華料理屋で昼食を食べていました。店にはテレビが一台あり、ニュース番組で脱線事故のことが報道されています。そして、よくよく考えてみたら1日前に同じ電車の同じ車両に乗っていたことに気づいて、その瞬間全身に震えがきました。帰る途中、氷川神社の前を過ぎましたが、思わず鳥居の前で手を合わせていました……。
 これらのことは、単なる偶然かもしれません。しかし、不幸にして亡くなられた方も、その場に偶然居合わせて、尊い命を亡くされたわけです。今生きていることに感謝するとともに、亡くなられた方々のご冥福を祈りたいと思います。



生死を分けた偶然
 「ここに来れば会える…」。東日本大震災で大きな被害を出した宮城県山元町の沿岸部近く。この町に住む岩佐羽奈ちゃん(7)は、毎週日曜日、通っていた幼稚園の献花台を訪れて、津波の犠牲になった親友の「ゆいちゃん」にメッセージを書き続けています。
 「10・28 ゆいちゃん7さいのおたんじょうびおめでとう ぷれぜんとこんどもってくるね」「ひまわりのたね いっぱいもらったから こんどあげるね」……献花台のノートには、ゆいちゃんにあてた幼い文字が並んでいます。
 羽奈ちゃんとゆいちゃんは、入園前からの友達で、幼稚園も同じところに通っていました。
 震災のあったあの日。海岸から約1・5キロ内陸の幼稚園も津波が襲い、園児8名と職員1名が犠牲になりました。ゆいちゃんは、幼稚園の送迎バスに乗り、避難しました。しかし……途中で車両ごと濁流にのまれ、数日後、変わり果てた姿で見つかりました。
 この時、羽奈ちゃんがいたのは、海から離れた病院。予防接種を受けるため、早退していたのです。いつも通りなら、ゆいちゃんと一緒のバスに乗っていたかもしれない……。生死を分けたのは、単なる偶然でした。
 幼稚園に献花台が出来てからは、毎週のように、羽奈ちゃんは足を運んでいます。ここに来れば、ゆいちゃんに会える。「ゆいちゃんがいたら、いいなって時々思う」……と、ポツリ漏らすことも。送り続けたメッセージは、すでに60通を超えました。



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